何気なく使ってる言葉の意味

「臭いものには蓋をしろ」

 

「皆さん」は「臭いものには蓋をしろ」(くさいものにはふたをしろ) と、いう

「ことわざ」を「使った事」が「有り」ませんか?。

 

 

「臭いものには蓋をしろ」の「意味」は

 

・「都合の悪い事」を「外に漏れない」様に「隠して」しまう事。

 

・「失敗や悪事などの問題」を「解決しようとするのでは無く」

   「あくまでも」「一時しのぎ」で「やり過ごそう」と、する事。

 

・「面倒臭い事」は「次の人達」に「任せよう」と、する事。

 

・「テレビドラマ」に「よく出て」くる「企業の隠ぺい体質」を「意味」する事。

 

   です。

 

 

「臭いものには蓋をしろ」の「類似語」と、しては

 

・「お茶を濁す」(おちゃをにごす))

 

   「お茶」とは「抹茶の事」で「茶道の作法」を「よく知らない者」が「程よく茶を濁らせ」

   「それらしい抹茶に見える」よう「取り繕う」(とりつくろう) と、する事。

 

「いいかげん」な「その場しのぎ 」で「誤魔化し」(ごまかし) たり

「取り繕う」(とりつくろう) と、する事。

 

・「しらを切る」(しらをきる)

 

   「漢字」では「白を切る」と「書き」ます。

 

  「知って」いながら:、わざと「知らないふり」を、したり「しらばくれる」事。

 

・「屁を放って尻つぼめる」(へをひってしりつぼめる)

 

   「失敗をした後」で、「あわてて」「相手に気付かれないよう」に「失敗を隠したり」

   「ごまかしたりする」事。

 

・「姑息」(こそく)

 

   「一時しのぎの、間に合わせ」の事。

   「根本的な解決では無く」「その場しのぎに過ぎない手段」の事。

 

   辺りが「該当する」そうです。

 

 

「臭いものには蓋をしろ」の「対義語」と、しては

 

・「膿んだものは潰せ」(うんだものはつぶせ)

 

   「化膿した腫れ物」(かのうしたはれもの) は「膿( うみ) を出した方」が「治りが早い」様に

   「害になるもの」は「思い切って」「根本から取り除けば」「思いのほか良い結果が出る」事。

 

・「頭隠して尻隠さず」(あたまかくしてしりかくさず)

 

   「悪事や欠点などの一部だけを隠し」「全部を隠したつもり」で、いる事。

 

   「その場しのぎ」に「隠しても」「臭いもの」の「悪臭」は「どこからか漏れてしまう」事。

 

   「悪臭に慣れきった」「本人」は「うまく隠せた」と「思っていたとして」も

   「臭いもの」の「悪臭」は「他人」には「誤魔化せない」事。

 

・「臭いにおい」は「元から断たなきゃダメ」

    「何かのコマーシャル」で、「テレビ放映されていた」気が、します。

 

   辺りが「ふさわしい」そうです。

 

 

「森高 千里」は「臭いものにはフタをしろ」という「歌」を、歌いました。

 

「森高 千里」は「1,969年・生まれ」の「歌手」「シンガーソング・ライター」「女優」

「タレント」を「こなす」「マルチ・プレイヤー」でした。

「音楽」に「於いて」は「コスプレ衣装」で「ヴォーカル」「ギター」「ドラム」「ピアノ」他

「何でも」「こなし」ました。

 

「1,987年」「歌手」として「メジャー・デヴュー」しました。

「夫」は「俳優」の「江口 洋介」です。

 

「1,992年」に「私がオバさんになっても」が「ヒット」し「女性ファン」の

「心を掴み」ました。

「1,993年」に「渡良瀬橋」(わたらせばし)「「風に吹かれて」が「ヒット」し「新たな路線」を

「確立」しました。

 

 

「森高 千里」「臭いものにはフタをしろ」「作詞」:「森高 千里」「作曲」:「斎藤 英夫」

 

ある日突然知らない男が  私を呼びとめて

いいかロックンロールを知らなきゃ  もぐりと呼ばれるぜ

オレは10回  ストーンズ 見に行ったぜ

 

あんた一体なにがいいたいの  私をバカにして

そんな言い方平気でしていると  おじさんと呼ぶわよ

私ロックはダメなの  ストレートよ

 

話したいのはわかるけど  おじさん

昔話は苦手  本でも書いたら おじさん

 

腰をフリフリ歌って踊れば  みんな忘れちゃうわ

理屈ばかりじゃお腹が出るわよ  誰かさんみたいに

私もぐりでいいのよ  好きにするわ

 

あとは私にまかせてよ  おじさん

昔話は苦手  本でも書いてたら ねえおじさん

 

腰をフリフリ歌って踊れば  みんな忘れちゃうわ

あんた知ってるだけじゃだめなのよ  身体使わなくちゃ

ほんと理屈は得意ね  ねえおじさん

 

私もぐりでいいのよ  ねえおじさん

これがロックンロールよ  ねえおじさん  

 

 

「ブログ」「芽生える」で「麻丘 めぐみ」が「歌った」「芽生え」という「歌」に

「芽生え」という「歌詞」が無く「芽生え」を「連想させる歌詞」も「無い」と

   私は「書き」ました。

「この曲」にも「臭いものにはフタをしろ」という「歌詞」は「有り」ません。

 

「作詞」した「美人・ロック・アーティスト」である「森高 千里」が「何故」「この歌」に

「臭いものにはフタをしろ」と、いう「曲名」を「付けた」のか「考えて」見ました。

「You  tube」を「見ている」と「森高 千里」は「腰をフリフリ」しながら「リズミカル」に

「歌って」います。

 

・「ストーンズ」とは「世界のロック界」を「牽引した」「レットイットビー」(なるがまま)で

    「有名」な「イギリス」の「ロックバンド」「ザ・ビートルズ」(「ヴォーカル」は

    「ポール・マッカートニー」) の 「次世代」の「イギリス」の「ロック・バンド」

    「ザ・ローリングストーンズ」  (「ヴォーカル」は「ミック・ジャガー」) の,事です。

 

  「ビートルズ」は「優等生タイプ」だったのに対し「ローリングストーンズ」は

  「不良」を「イメージ」させる「ロック・バンド」でした。

  「ヴォーカル」の「ミック・ジャガー」は「腰をフリフリ」しながら

  「セクシー」に「歌い」ました。

 

・「おじさん」とは「常識を振りかざす」「臭い物」の「代名詞」だと「思い」ます。

 

・「ロックはダメなのストレート」とは

 

    「ウイスキー」を「飲む時」

   「ロック」とは「氷」を、入れて「薄めながら飲む」事、です。

   「ストレート」とは「水も氷も入れず「生の濃さ」(きのこさ)で「飲む」事です。

 

・「昔話」とは「「ザ・ビートルズ」の、事だと「思い」ます。

 

・「理屈は得意」とは「机上で」「口先のみでで常識論」を「唱えるだけ」で

   「身体を使わない人」「理屈屋」の  事、だと「思い」ます。

 

・「私、もぐりでいいの」とは

 

   「世界一」は「無理だけど」「日本一」を「目指している」

      と「言う意味」だと「思います。

 

・「臭いものには蓋をしろ」とは

 

    「常識的で紳士ぶった」「ビートルズ」の事など「忘れ」て

    「ちょい悪おじさん」の「ローリング・ストーンズ」の「歌」を「聴け」という「意味」だと

      私は「解釈」しました。

 

    「クソ真面目」に「現実を根本から直そう」と「シャカリキ」に「闘って」も

    「結局」は「大きな敵」に「踏み潰されて」しまいます。

    「臭いもの」に「蓋をして」「真実に目をつぶる」事も「たまには大事」だと

    「忠告している」のだと、私は「解釈」しました。

 

 

※「八重垣神社・祇園祭

 

「8月・4日」(日)〜「8月・5日」(月) に「夏祭り」が「開催され」ました。

 

「八重垣神社」を「中心」と、した「10町内」から「合計・「20数基」の「神輿」(みこし) が

「繰り出され」ます。

「笛と太鼓」の「軽快な囃子(はやし) の「リズム」に「合わせ」て「担がれる神輿」は

「上下左右」に「激し揺れ」ます。

「町内毎に」着る「半纏」(はんてん) =法被(はっぴ) が「違い」ます。

 

「この地方独特のスタイル」で「ありゃー・どした」の「威勢の良い掛け声」で

「練り歩く姿」は「見ている人の心」をも「踊らせ」ます。

「神輿の行列」に「冷水」を「浴びせ掛ける」のも「この祭り」の「特色」です。

「炎天下の中」で「重い神輿を担ぎ」「汗ビッショリ」に、なった「担ぎ手」は

「冷たい水」を「かけてくれ」と「せがみ」ます。

 

「8月・4日」(日) は

 

「それぞれ」「自分の町内」を「練り歩き」ます。

「地元の人」だけでは「重い神輿」を「担ぎ切れ」ません。

「市外」から「多くの人が集結」し「ゆかりのある町」の「神輿」を「担いで」くれます。

 

「休憩所」では「囃子連」(はやしれん)が

 

「笛」・「大太鼓」(おおど)・「小太鼓」(つけ)・「大鼓」(おおつづみ・おおかわ)

「小鼓」(こつづみ・こかわ)・「鉦」(かね・ちゃんちき) の「メンバー」で

「大漁節」「早馬鹿」(はやばか・「曲の調子」が「徐々に早くなる」) 等「10曲程度」を

「披露」(ひろう) します。

 

「夕方」から「全国でも珍しい」「女性だけで担ぐ」「女神輿」が「始まり」ます。

「各町内」から「1基づつ・計「10基」の「女神輿」が「あでやかさ」を「競い」ます。

 

「濃いめに化粧」し「色々な髪形にゆい」「髪かざり」を「付け

「半纏」「鯉口シャツ」「股引き」「足袋」を「着衣」し

雪駄」を「履いた」「女性」は「普段」より「りりしく」「美しく」見えます。

 

「女神輿」は「担ぐ人の肩の高さが揃い」「静かに担ぐ」ので「長時間」「担ぎ続ける事」が

「可能」です。

「私の妻」「義妹」(ぎまい) も「若い頃」は「自分の名前を書いた」

「提灯」(ちょうちん) を「片手」に「担いで」いました。

 

「従来」「女性」は「神輿に触れる事」も「許されていません」でした。

「何故か」「この祇園祭」は「女人禁制」(にょにんきんせい) の「旧例」が「緩和」され

「大手を振って」「女神輿」を「担げる様に」なったそうです。 

 

「従って」「遠くから」「多くの女性」が「集まり」ます。

「女性を目当て」に「チャラ男」が「ドンドン」集まります。

 

「8月・5日」(日) は

 

「10町内」から「集まった・20基以上の神輿」は「小学校に集合」します。

「儀式」を「終える」と「年番町」を「先頭」に「小学校」を「出発」します。

「その後」「延々と連なって」「市街」を「練り歩き」ながら「連合渡御」(れんごうとぎょ)

 します。

 

「今年の年番町」は「去年の9月」まで、私が「勤務していた会社」の「支店」が、ある

「西本町」でした。

「支店」からも「4人」が「参加」した、そうです。

「昔は」「会社の名前の入った」「はっぴ」を「着て」いましたが「現在では」

「町内の人達」と「同じはっぴ」を「着ている」そうです。

 

「支店のすぐ近く」に「俳優」だった「地井 武男」の「生家」が、有り」ます。

「地井 武男」は「生前」には「毎年祭りに参加」して、いました

「神輿の上に乗り」「音頭を取っていた」そうです。

   私は「自分の町内」;の、事で「手一杯」だった、ので「見た事」は「有り」ませんでした。

 

「夕刻4時過ぎ」に「年番町から次々」と「八重垣神社」に「神輿が入いり」ました。

「T字路」で「広いスペース」で「神輿をもむ」と「祭りは最高潮」に「達します。

「担ぎ手の掛け声」「神輿を取り囲む」「応援団」にも「力が入り」ます。

「見物する人垣」が「何重も」「出来」ます。

 

  そして「全ての神輿」「石段を上り」「神社の境内」に「集合」します。

「神社での儀式」が「終わる」と「それぞれの町内」に「戻り」「時間まで」

「神輿をもみ続け」ます。

 

あれは「4年前」でした。

 

「当時」私は「支店を回る仕事」を、していました。

「血圧の薬」を「飲んでいても」「楽に」「200・オーバー」する事が

「頻繁」に「有り」ました。

 

「そんな時」には「頭が」「ぼーっ」と、なり「自由に体も動かず」「真っ直ぐ歩くこと」も

「出来ず」「反対方向から歩いてくる人」と「何度もぶつかって」しまいました。

「駅の階段」の「上り下り」も「手すりに捕まらなけれ」ば「無理」でした。

 

「そんな中」「祭りの裏方」を「手伝う」ため「集合場所」の「会館」に「行き」ました。

  しかし、私は「何も手伝う事が出来ません」でした。

「皆んな」に「家に帰って休め」と「言われ」「帰って寝て」しまいました。

 

  そして「2,017・3・8」に「脳梗塞」に「罹患」して、しまいました。

「私が入院した事」は「町内中」に「あっという間」に「広まって」しまいました。

   私が「祭りに出る事」は「無理」と言うのが「皆んな」の「共通認識」でした。

脳梗塞発症前」より「元気になる事」は「あり得ない」と「考える」のが

「普通」だったと、思います。

 

「回復した事」を「知っている人」も「いるはず」ですか「祭りに出ろ」と

「積極的」に「誘う人」は「誰もいません」でした。

「祭りに出たせい」で「病気が再発」したら「誰もが」「嫌な思いをする」はずです。

 

「喪中の人」が「祭りに出る事」を「嫌われる」様に

  私も「祭りに出る事」を「嫌われている気」が、します。

 

「町内の人」と「顔を合わせ」ても「体は大丈夫ですか?」と「尋ねる人」ばかりです。

   私が「祭りに出」て「タバコ」を「吸いながら」「酒を飲んでいれ」ば

「皆んな」に「嫌な思い」を、させると「重い」ます。

 

  私は「3年間」「祭り」に「遠ざかって」います。

「お囃子」は「耳に入ってきます」が「神輿」は「見た事」が「有り」ません。

「屋台」に「買い物をしに繰り出した事」も「有り」ません。

「毎年」「千葉テレビ」で「旭・七夕祭り」と「一緒」に「特集番組」が「放映され」ますが

「見る気が起きる」か「分かり」ません。

 

  私は「若い頃」「祭りキチガイ」では「有り」ませんが「祭り大好き人間」でした。

「神輿の花形」で、ある「先棒」(さきぼう)を「担いだ事」は「有り」ませんが

「重くて」「目立たない」「後棒」を「2日間」「担ぎ切った事」が、「有り」ました。

「翌日」は「全身筋肉痛」で「歩くのも大変だった事」が「何年間」あった事を

「思い出して」います。

 

「1番印象的なの」は「後、数十分」で「祭りが」「終わってしまう時間」に、なると

「誰か」が「これまでのの掛け声」違う「明日はないぞ・ヨーイヨヤサ」と「叫ぶ」と

「皆んな」も「追随」し「最後の力をふり絞り」「神輿を担いだ事」です。

 

「1年間待ち続けた」「祭り」が「もう少しで」「終わってしまう」

「次に担げる」のは「1年後」あるいは「何かの事情」で「担げないかも知れない」

「祭り」は「華やか」ですが「祭りの終わり」には「淋しい気持ち」「複雑な気持ち」が

「湧いて」きます。

 

  そして「祭りが終わった」「翌日」には「あちこちに散らばったゴミ」を「掃除したり」

「祭り前の姿」に「復旧」します。

  そこには「むなしさ」とか「せつなさ」という「感情」が「湧き起こり」ます。

 

 

「吉田 拓郎」(よしだ たくろう)は「祭りのあと」という「歌」を、歌いました。

 

「吉田 拓郎」は「1,946年・生まれ」の「シンガーソング・ライター」

「作詞家」「作曲家」「編曲家」「音楽プロデューサー」です。

「日本」の「シンガーソング・ライター」の「草分け的存在」でした。

「マイナー」であった「「フォーク」と「ロック」を「メジャー」へ「引き上げ」ました。

 

「最初の妻」は「四角 桂子」(「よすみ けいこ「六文銭」の「ヴォーカル」)

「2番目の妻」は「浅田 美代子」(「元・アイドル歌手」「女優」「タレント」)

「現在の妻」は「森下愛子」(「女優」)

  です。

 

「1,972年」に「結婚しようよ」が「大ヒット」しました。

「当時」は「男性」も「女性と同じ位 長髪」に、するのが「ブーム」でした。

  (「僕の髪が肩までのびて君と同じようになったら約束どおり町の教会で結婚しようよ」) の

「歌詞」で「始まる歌」は「当時」「主流、」で、あった「反体制的な歌」に「飽きたりていた」

「若者」に「迎合」(げいごう) されました。

 

「同年」に「森 進一」に「提供した楽曲」(「作曲」)「襟裳岬」(えりもみさき)が

「日本・レコード大賞」を「受賞」しました。

「当時」「国民的な大イベント」で、あった「表彰式」に「吉田 拓郎」は「上下共に」

ジーンズ姿」で「登場」し「平然」と「賞」を「受け取り」ました。

「多くの関係者」から「批判が続出」し「物議を醸し」(ぶつぎをかもし) ました。

 

「かまやつ ひろし」に「提供」した「我が良き友よ」他「提供」した「多くの曲」が

「大ヒット」しました。

「1,975年」には「高額納税者・歌手部門」で「第・5位」に、なりました。

「井上 陽水」は「第・7位」でした。

「森山 良子」にも「歌ってよ夕陽の歌を」を「提供」し「以後」「9森山 良子」は

「フォークの女王」と「呼ばれ」ました。

 

「1,970年代後半」には「キャンディーズ」に「やさしい悪魔」「石野 真子」(いしの まこ)に

狼なんか怖くない」を「提供」しました。

 

「吉田 拓郎」が「歌った歌」は「自身の生き方」「恋愛経験」を「テーマ」と、した「歌」で

「当初」は「体制に迎合する軟弱な歌」と「バッシング」を「浴び」ました。

「多くの若者達」は「体制に反対する事」を「ステータス」(「社会的地位・身分」だと

「考えて」いました。

 

「百万本のバラ」「知床旅情」(しれとこりょじょう) 等、を「歌い」

「過激派・メンバー」と「獄中結婚」(ごくちゅうけっこん) した「東京大学・卒業」の「歌手」

「加藤 登紀子」は「多く」の「反戦歌」を、歌いました。

「反体制」を「唱える大学生」の「象徴的存在」でした。

 

「折しも」「連合赤軍」による「あさま山荘事件」「リンチ殺人事件」が「発生」しました。

「若者の気持ち」は「引いて」しまいました。

「若者達」は「ひたすら」「反体制」を「訴える歌」に「疑問」を「感じ始め」ました。

 

  そして「吉田 拓郎」の「歌」の様な「明るい未来」を「感じさせる歌」が「若者の間」に

「徐々に浸透して」来ました。

「人の気持ち」は「移ろいやすいもの」でした。

「吉田 拓郎」は「いつのまにか」「時代のヒーロー」と、なりました。

 

「吉田 拓郎」の「影響」を「受け」南こうせつかぐや姫」が「歌った」「神田川」の、様な

「人の持つ感情」を「素直に表現する歌」が「数多く排出」されました。

「吉田 拓郎」は

「ある意味」で「織田 信長」の様な「風雲児」(ふううんじ・「社会の変動に乗じて活躍」する

「英雄的人物」) だったのかも、しれません。

 

 

「吉田 拓郎」「祭りのあと」「作詞」:「岡本 おさみ」:「作曲」:「吉田 拓郎」

 

祭りのあとの  淋しさが

いやでもやって  くるのなら

祭りのあとの  淋しさは

たとえば 女で  まぎらわし

もう帰ろう  もう帰ってしまおう

寝静まった  街を抜けて

 

人を怨む(うらむ)も  恥ずかしく

人をほめるも  恥ずかしく

なんのために  憎む(にくむ)のか

なんの怨み(うらみ)で  憎むのか

もう眠ろう  もう  眠ってしまおう

臥待月(ふしまちづき)の  出るまでは    (臥待月」とは「8月・19日」に「昇る」「月」)

 

日々を慰安(いあん)が  吹き荒れて

帰ってゆける  場所がない

日々を 慰安が 吹き抜けて

死んでしまうに  早すぎる

もう笑おう  もう笑って しまおう

昨日の夢は  冗談だったんだと

 

祭りのあとの  淋しさは

死んだ女に  くれてやろ

祭りのあとの  淋しさは

死んだ男に  くれてやろ

もう怨むまい  もう怨むのは よそう

今宵(こよい)の酒に  酔いしれて

 

もう怨むまい  もう怨むのは よそう

今宵の酒に  酔いしれて

 

※「3連目」の「日々を慰安が吹き荒れて」は

「詩人」「吉野弘」の「詩」の「1行」を「引用」した「歌詞」です。

 

「慰安」の「意味」は

「心をなぐさめること(」「労をねぎらうこと」です。

 

 

「臭いものには蓋をしろ」を「英語」で言う」と

 

「Put a lid on it」   「lid」は「蓋」(ふた)という「意味」

 

   (「公表しないで隠しておく」)

 

   と「言う」そうです。

何気なく使っている言葉の意味

「人は見かけによらぬもの」

 

「皆さん」は「人は見かけによらぬもの」という「ことわざ」を「使った事」が

「有り」ませんか?。

 

 

「人は見かけによらぬもの」の「意味」は

 

・「人の本当」の「性格」や「能力」は「見た目の印象」や「外見」では

   「判断できない」事の「たとえ」

 

・「人が」「長い間積み重ねて来た事による能力」「長い間の習性による性格」は

   「外には現れにくい」から「外見だけで簡単に判断してはいけない」事の「たとえ」

 

・「見た感じが気に入らない」から「悪い人と決めつけ」たり

   「見た感じが良い人だから良い人」だと「先入観」「独断」「偏見」だけで

   「決めつける事」を「戒める意味」の「たとえ」

 

・「善人そうだった人」が「実は」「悪人だった場合」或いは「逆の場合」の「たとえ」

     (「テレビドラマに良くあるパターン」) 

 

・「外見」と「中身」は「違う事が多い」という事の「たとえ」

 

   だ、そうです。

 

 

「人は見かけによらぬもの」の「類似語」としては

 

・「あの声で蜥蜴食うか時鳥」(「あの声でトカゲくらうかホトトギス」)

 

・「蛇食うと聞けば恐ろし雉子の声」(「へびくうときけばおそろしきじのこえ」)

 

・「外面菩薩の如く内心夜叉の如し」(「がいめんぼさつのごとくないしんやしゃのごとし」)

 

・「外見を信用してはいけない」

 

    等が「有る」そうです。

 

 

「人は見かけによらぬもの」の「対義語」を「検索」しても「出てき」ません。

 

・「見た目通り」

 

・「下馬評通り」

 

・「にらだ通り」

 

・「予想通り」

 

・「案の定」

 

・「想定内」

 

   辺りが「妥当」な:気がします。

 

 

「守屋 浩」は「大学数え唄」という「歌」を、歌いました。

「1,962年」に「発売され」ました。

「原曲」では「大学名」が「特定されて」いたそうです。

 

「守屋浩」は「1,938年・生まれ」で「千葉県出身」の「歌手」「俳優」です。

「1,957年」に「日劇エスタン・カーニバル」で「デヴュー」しました。

「同時期に活躍」していた「井上 ひろし」「水原 弘」「かまやつ ひろし」と、合わせ

「四人・ひろし」と、言われて、いました。

 

「当初」は「当時流行って」いた「ロカビリー・ブーム」で「大活躍」し

「茶の間」にも「広く知れ渡るよう」に、なりました。

「1,960年」に「歌謡曲」に「転向」し「夜空の笛」「僕は泣いちっち」「有難や節」が

「大ヒット」しました。

 

「1,960年」に「僕は泣いちっち」で「第11回・NHK紅白歌合戦」に「初出場」しました。

「1,961年」には「月のエナジー」で

「1,962年」には「大学数え唄」で

「1,964年」には「がまの油売り」で「4年・連続」して「「紅白出場」を「果たし」ました。

 

「歌手」「女優」で、あった「本間 千代子」と「結婚」しましたが

「すぐに」「別れた」そうです。

「理由」は「不明」です。

「本間 千代子」は「初恋の人」で、あった「音楽プロデューサー」と「再婚」した、そうです。

「再婚」と「同時期」に「芸能界」から「引退」しました。

 

「本間 千代子」は「清楚な容姿」を、生かし「数々の青春映画」で「主演」しました。

  又「透き通るような歌声」で「多くの青春歌謡」を「歌い」ました。

「元・野球選手」の「王 貞治」との「ヂュエット曲」を「発売した事」でも

「話題」と、なりました。

 

「当時の雑誌」「明星」(みょうじょう) の「ファン投票」では「吉永小百合」を、抜いて

「第・1位」と、なりました。

「プロマイド」の「売り上げ」も「追随(ついずい) を許しません」でした。

  私より「9歳・年上」でしたが「子供だった私達」に、とって「憧れの的」でした。

 

 

 

「守屋 浩」「大学数え唄」「作詞」:「浜口 庫之助」「作曲」「仲田 三孝」

 

一ツ(ひとつ) とせ  人は見かけに よらぬもの

軟派(なんぱ) 張るヤツぁ  ?大生

そいつぁ ゴーキだね  そいつぁ ゴーキだね   (「ゴーキ」の「意味」は「分かりません」)

 

二ツ(ふたつ) とせ  二目(ふため) と見られぬ  オカメでも

窓から 顔出す  ?大生

そいつぁ ゴーキだね  そいつぁ ゴーキだね

 

三ツ(みっつ) とせ 見れば逆立ち  したくなる

座布団 ぼうしの  ?大生

そいつぁ ゴーキだね  そいつぁ ゴーキだね

 

四ツ(よっつ) とせ 夜の夜中に  飛び起きて

昼は 寝呆ける(ねぼける)  ?大生

そいつぁ ゴーキだね  そいつぁ ゴーキだね

 

五ツ(いつつ) とせ いつも神田で  たたき売り

バイト する奴ぁ  ?大生

そいつぁ ゴーキだね  そいつぁ ゴーキだね

 

六ツ(むっつ) とせ むかむかするよな  カッコして

ウインク する奴あぁ  ?大生

そいつぁ ゴーキだね  そいつぁ ゴーキだね

 

七ツ(ななつ) とせ 何にもしないで  卒業して

世に出て 恥かく  ?大生

そいつぁ ゴーキだね  そいつぁ ゴーキだね

 

八ツ(やっつ) とせ 破れタオルで  頬っかぶり(ほっかぶり)

肥おけ(こえおけ) かつぐは  ?大生

そいつぁ ゴーキだね  そいつぁ ゴーキだね

 

九ツ(ここのつ) とせ くどくあるような 面(つら) をして

ぬれ手で もうける  ?大生

そいつぁ ゴーキだね  そいつぁ ゴーキだね

 

十(とお)とせ とうとう出ました  女子大生

亭主 尻しく  カカア天下

そいつぁ ゴーキだね  そいつぁ ゴーキだね

 

十一(じゅういち) とせ 十字架背負って  ケンカする

キリスト 泣かせの  ?大生

そいつぁゴーキだね  そいつぁ  ゴーキだね

 

終わりとせ 尾張名古屋は  城でもつ

天下の 大学  俺でもつ

そいつぁ ゴーキだね  そいつぁ ゴーキだね

 

  私が「大学1〜2年生」の時「考古学部」に「在籍していた頃」

  (「女性部員も「10人以上」いました)

「合宿の宴会」「コンパ」等、では「違う数え唄」も、良く「唄い」ました。

「女性部員も一緒に歌ったか?」の「記憶」は「ハッキリ」しません。

  しかし「少なくとも」「この唄」に「異を唱えた女性」は「誰もいません」でした。

 

1.一つ(ひとつ) でたほいの よさほいの ほい

   一人娘と やるときにゃぁ  親の承諾 得にゃならん

 

2.二つ(ふたつ) でたほいの  よさほいの ほい

   二人姉妹と やるときにゃぁ  姉のほうから せにゃならん

 

3.三つ(みっつ) でたほいの  よさほいの ほい

   醜い女と やるときゃぁ  ハンカチかぶせて せにゃ ならん

 

4.四つ(よっつ) でたほいの  よさほいの ほい

   よその女と やるときにゃぁ  名刺片手に せにゃ ならん

 

5.五つ(いつつ) でたほいの  よさほいの ほい

   いつもの女と やるときにゃぁ  アノ手コノ手で せにゃ ならん

 

6.六つ(むっつ) でたほいの  よさほいの ほい

   昔の娘と やるときにゃぁ  アルバム片手に せにゃならん

 

7.七つ(ななつ) でたほいの  よさほいの ほい

   質屋の娘と やるときにゃぁ  出したり入れたり せにゃ ならん

 

8.八つ(やっつ) でたほいの  よさほいの ほい

   八百屋の娘と やるときにゃぁ  大根片手に せにゃ ならん

 

  まだまだ「続きました」が「覚えて」いません。

 

「皆さん」が「この数え唄」(「春歌」(しゅんか・「卑猥な歌詞を含む唄」) を「読んで」

「どう感じるか」「分かり」ません。

 

「私にとって」は「たった一度の」「過ぎ去った」「良き青春時代」の「思い出の唄」

「意外」の「何物」でも、有りません。

「男女が肩を組み」ながら「一緒に唄った」「唄」でした。

「当時一緒に唄った何人かの人達」の「顔」が「目に浮かび」ます。

 

「当時」は「私達の学校意外の学生」も「皆んな」「何のてらい」も、無く

「唄っていた」はずです。

「皆んな」が「おおらかな気持ち」でした。

 

「重箱の隅をつつくような事」を「言う人」は「誰もいません」でした。

  もし「皆さん」が「違和感」を「感じたとしたら」「時が人の考え方」を「変えてしまった」

  のかも「知れ」ません。 

 

  私が「大学1年生」の時「当時」「お坊ちゃん」「お嬢さん」が「数多く在籍している」事で

「有名」な「ミッション系大学」(キリストに関係の深い大学 )「上智大学」の「考古学部」と

「共同・発掘調査」の「合宿」が「有り」ました。

 

「発掘場所」は「私の出身県」「千葉県」で「遺跡がよく出土される」事で

「有名な町」でした。

上智大学」からの「参加人数」は「30人位」でしたが「女子部員」が、多く

「10人位」いました。

 

「男子部員」の「主な仕事」は「トレンチ掘り」(「発掘溝掘り」)で「3m位」の「深さの溝」を

「掘り」ました。

「女子部員」の「主な仕事」は「遺跡調査」でした。

「季節」は「初夏」でした、

「男子部員」は「上半身裸」で「作業」しました。

 

「3mの深さ」から「地上めがけ」「スコップに盛った土」を「放り上げる」と

「土」は「スコップの形」を、したまま「飛んで行き」ました。

「土を放り投げた瞬間」に「スコップを下にさげる」と「誰でも簡単」に、出来ます。

 

「体力が勝負」の「作業」でした。

「この頃」私には「人並み以上の体力「が、有りました。

 

上智大学の女子部員」は「皆・ジーパン姿」でしたが「洗練された人ばかり」でした。

「特に」「何時も一緒に行動」していた「2学年先輩の・2人」は

「如何にも、お嬢さんタイプ」でした。

「2人共」「東京生まれ」「東京育ち」で「父親」は「大企業の・重役」でした。

 

「2人」は「何故」か、私に「何度も話し掛け」て来「優しくして」くれました。

「特に」『「飯沼 淑子」(いいぬま しゅくこ) さん』

  (私は「しゅっこ ちゃん」と、呼んでいました) は

「女子部員の中」でも「群を抜いて」「綺麗」で「大人の雰囲気」を「持ちながら」も

「明るい性格」でした。

 

「いつのまにか」「合宿が終わって」「東京に帰った」ら「3人で会おう」と「言う話」に

  なって、いました。

「合宿の最後の宴会」では「皆んな」で「上記の・春歌」を「歌い」ました。

 

  私は「他にも」「年上の女性」に「可愛がってもらった」事が「有り」ました。

  私の「田舎っぺ臭さ」(いなかっぺ くささ)と

「朴訥さ」(「ぼくとつさ」・「飾り気がなく、話し下手」) な、事が

「都会生まれで、都会育ち」の「女性」には「新鮮」に「映った」様でした。

「もちろん」「友達以上の関係」に、なった事は「有り」ませんでした。

 

「3人で会った」のは「原宿」でした。

   私は「2人」の「いでたち」を、見て「ビックリ」して、しまいました。

  そして「住んでいる世界が違う」と「思い」ました。

「二度」と「二人」と「会う事」は「有り」ませんでした。

 

「今思う」に「ひょっとして」「10年間付き合いながら」も「彼女」との「距離が縮まらず」

「最終的」に「NO」と「言われた」のは「周囲の反対」が「有った」からではないか?」と

「ブログ」を「書くようになってから」「思う事」が「有り」ます。

 

「生まれと育ち」に「差があったせいではないか?」と「思う事」が「有り」ます

  まだ「そういう理屈」が「まかり通った時代」だったような、気がします。

 

 

※「自然薯・栽培」

 

  私は「何とか」「圃場に生えた雑草」を「取り除き」「遮光ネット」を「めくり上げ」

追肥」を、しました。

「野菜を含む植物を育てる時」には「発育を止めない様」に「植え付けの前」に

「培養土」に「肥料」を「すき込んで」おきます。

 

「この時」の「肥料」を「元肥」(もとごえ) と「言い」ます。

「生育の過程」に「合わせ」「必要な栄養」を「補給する」為「肥料」を「施し」ます。

「この時」の「肥料」を「追肥」(ついひ) と「言い」ます。

 

「自然薯」の「場合」には「根を伸ばし」たり「ツルを伸ばす」事は「種イモの養分」を

「使います」ので「元肥」は「さほど重要」では「有り」ません。

  しかし「この時期」には「種イモの養分」は「ほぼ使い切って」いるはず、です。

「自然薯」を「肥大化」させる為には「追肥」が「不可欠」です。

 

  私は「ムカゴ・栽培」を「通じ」て「遮光ネット」だけでは「地温の上昇」を

「食い止められない」という「貴重な経験」を、しました。

「自然薯の圃場」にも「更なる」「防熱対策」を「しなければ」なりません。

「真っ先」に「考えた」のは「敷きワラ」でした。

 

「早速」「ホームセンター」に「行き」ました、

「ホームセンター」に「ワラ」は「売って」いました。

  しかし「ワラ」は「高価」で、私は「購入する事」に「二の足を踏んで」しまいました。

「農家で生まれ育った」私には、たかが「ワラ」が「何故こんなに高いのか?」

「不思議」でした。

 

「圃場の草取り」「追肥」を「やっていた・2日間」「細い道路を挟んだ」「休耕田」の

「草刈り」を「していた人」が、いました。

「サングラス」を「かけていましたが「その姿」から「40歳代」に、見えました。

 

  私は「得意」の当たって砕けろ」「精神」で「その人」に「声をかけ」ました。

  そして「刈った草をどうするのか」「尋ね」ました。

「その人」は「いぶかしげ」に、私を見て「そのままにしておきますよ」と「答え」ました。

  私は「ワラは高い」ので「代わりに刈った草」を「圃場に敷きたい」ので

「刈った草を、貰えないか」と「頼み」ました。

 

「その人」は「気持ちよく」「いいですよ」と「言ってくれ」ました。

「色々話している」内に「名前を聞く」と「佐瀬」と「答え」ました。

「父親の名前」を「聞く」と「孝一」と「答え」ました。

 

「その人」は「げんぜんどん」と、いう「屋号」で「部落一の大地主の跡継ぎ」で、ある事が

「分かり」ました。

「佐瀬さん」の父親」は「農業のかたわら」で「市会議員」も「務めた人」でした。

  私が「就職」し「実家」から「通勤していた頃」には「佐瀬さん」は「保育園」か

「幼稚園」に「通って」いました。

 

「耕地整理前」には「細い川」が「流れていた事」「川を堰き止めて、水をかき出し」

「魚・うなぎ・ドジョウ」等を「捕まえた事」を、話す」と

「佐瀬さん」は「覚えている」と「答え」ました。

 

「山際」で「清水が湧く流れ」には「多くの、うなぎ」が「生息して」いました。

「うなぎの寝床」を「見つける」と「先端に数本の針」の、付いた「うなぎかき棒」で

「泥の中をかき回す」と「うなぎ」を「捕まえる事」が、出来ました。

「佐瀬さん」は「やった事はない」と、答えました。

 

「佐瀬さんの祖父」は「部落で1番」「田植え」が「上手」と「言われて」いました。

  私は「中学生〜高校生」の頃「2番目」に「上手」と「言われた事」が「有り」ました。

「もちろん」「手植え」でした。

 

  私が「兄の名前」と「その弟」だと言うと「ビックリ」して

「失礼しました」と「言い」ました。

 

「佐瀬さん」は「帰り際」「私の作業現場」に「立ち寄り」「何を栽培しているのか」と

「尋ね」ました。

  私が「自然薯」と「答える」と「やっぱり」と「言い」ました。

「田舎」の「大抵の人」は「葉を見ただけ」で「自然薯」と「分かる」はずです。

 

「翌日」私は「乾いた草」を「遮光ネットの上」に「大量に敷き」ました。

「日照りにやられる事」が「無くなった反面」「降った雨」が「圃場まで届きにくくなる」

「諸刃の剣」(もろはのつるぎ)です。

 

  私は「歳をとるにつれ」「一か八か」を「通り過ぎ」「零か百か」の「賭けに出る」事が

「多くなって来た」気が、します。

「もちろん」「これまで」に「賭けに勝った事」は「一度」も、有りません。

 

 

  私は「らんちゅう・飼育」「自然薯・栽培」「テレビ観賞」「ブログを書く事」を

「継続する事」に「決め」ました。

「その代わり」「ブログの投稿間隔」が「少し長くなる」と「思い」ました。

「やると決めた事」を「簡単」に「翻す」(ひるがえす)事は、私の「ポリシー」(方針・原則) に

「そぐわない行為」だと「反省」しました。

「弱気になった自分」を「反省」しました。

 

 

「村田 英雄」は「人生劇場」という「歌」を、歌いました。

 

「歌詞の中」に、出てくる「吉良の仁吉」(「きらのにきち」)は

「清水 次郎長」(しみずじろちょう) の「兄弟分」

  (きょうだいぶん・「他人同士」ではあるが、兄弟の縁を結んだ者」) です。

 

「幕末に活躍」した「侠客」(きょうかく・「義侠心」(ぎきょうしん) を、持って

「人の窮境(きゅうきょう) を救った人」) です。

 

「村田 英雄」は「1,929年・生まれ」の「演歌歌手」「俳優」でした。

浪曲師」(ろうきょくし)から「演歌歌手」に「転向」しました。

「1,958年」「浪曲」を「歌謡曲化」(「かようきょくか」) した

無法松の一生」で「歌手・デヴュー」しました。

 

「同じ浪曲師」「出身」の「三波 春夫」とは「良きライバル」でした。

「三波 春夫」は「1,964年」(「昭和39年」に「開催」された )「東京・オリンピック」の

「テーマソング」となった「東京五輪音頭」を「歌った歌手」として「有名」です。

 

「村田 英雄」は「1,961年」に「王将」を、歌い「ミリオンセラー」と、なり

「第4回・日本レコード大賞」を「受賞」しました。

「相乗効果」により「かつて歌った」「人生劇場」「無法松の一生」が

リバイバル・ヒット」と、なりました。

 

「デヴュー」から「一貫して」「男」・「人生」・「夫婦」を「題材」とした「歌」を。

「歌い続け」ました。

 

「同じ時代に活躍」し「歌謡界」を「リードして来た」「三橋 美智也」「春日 八郎」と

「三人の会」を「結成」し「ジョイント・コンサート」を「数多く開催」しました。

 

「俳優として」は「「身長・160cm」と「小柄」ながら「男らしい風貌」と「鍛え上げた声」で

任侠映画」(にんきょうえいが) に「欠かせない」「主演スター」と、して「活躍」しました。

「鶴田 浩二」「高倉 健」「北島 三郎」「千葉 真一」等と「多数共演」しました。

 

 

「村田 英雄」「人生劇場」「作詞」:「佐藤 惣之助」「作曲」:「古賀 政男」

 

やると思えば  どこまでやるさ

それが男の  魂 (たましい) じゃないか

義理がすたれば  この世は闇だ

なまじとめるな  夜の雨

 

あんな女に  未練はないが

なぜか涙が  流れてならぬ

男ごころは  男でなけりゃ

解る (わかる) ものかと  あきらめた

 

時世時節 (ときよじせつ) は  変わろとままよ

吉良の仁吉は  男じゃないか

おれも生きたや  仁吉のように

義理と人情の  この世界

 

 

「人は見かけによらぬもの」を「英語」で

 

「Appearances are  deceptive」

 

  (「外見は、当てにならない」)

 

  と、「言う」そうです。

 

 

何気なく使っている言葉の意味

「しっぺ返し」

 

「皆さん」は「しっぺ返し」という「慣用語」(かんようご)を「使った事」が

「有り」ませんか?。

 

「しっぺ返し」(しっぺがえし)「の「意味」は

 

・「あることをやられたら時、すぐやり返す事」

 

・「裏切られた時」「嫌な事を」を、された時「やり返す事」又は「やり返される事」

 

  です。

 

 

「しっぺ返し」の「語源」は「下記」です。

 

「しっぺ返し」とは、もともとは「竹箆返し」(しっぺいがえし) という「言葉」でした。

「竹箆」(しっぺい) とは「坐禅の際」に「戒め」(いましめ) の時に「打つ道具」で、

「割った竹に漆を塗った」「板状物の物のこと」です。

 

坐禅」を「組んでいる時」に「居眠りしている」と「喝!」(かつ!)と「言われながら」

「叩かれるシーン」が「テレビを見ている」と「出て来」ます。

「その時に使われる」のが「竹箆」です。

 

「竹箆」は「鎌倉時代」に「禅宗の伝来」と、共に「日本に伝わり」ました。

「寺で坐禅を行う時」「高僧の僧」が「先ず誰か」を「竹箆で打ち」ます。

「打たれた人」は「誰かを打ち返す立場」に、なります。

 

「この事」から「やられた事を「即座に」「やり返す事」を「竹箆返し」「しっぺいがえし」と

「言うよう」に、なり「しっぺ返し」へと「転じた」そうです。

 

「子供の頃」「人差し指」と「中指」を「揃え」「しっぺ!」と、「言い」ながら

「相手の手首」を「叩いた経験」が「有り」ませんか?。

「二本の指」を「竹箆」(しっぺい) に「見立てた事」より「しっぺ」と、言うそうです。

「子供に限らず」「大人になって」も「意味の分からないまま」「使っている言葉」は

「結構多い」そうです。

 

 

「しっぺ返し」の「類義語」と、しては

 

「やられたらやり返す」

 

「目には目を、歯には歯を」

 

「仕返し」

 

「報復」

 

「復讐」

 

「雪辱」

 

「お礼参り」

 

「敵討ち」(かたきうち)

 

「仇討ち」(あだうち)

 

  等が、ある、そうです。

 

 

「しっぺ返し」の「反対語」を「検索」しても「出て来」ません。

 

「やられても、やり返さない

 

「右の頬(ほほ) を、打たれたら、左の頬を差し出す」(「イエス・キリスト」の「言葉」)

 

「耐え忍ぶ」

 

「我慢する」

 

  辺りが「妥当」な「気が」します。

 

 

キャンディーズ」(「Candies「)は「微笑みがえし」という「歌」を、歌いました。

 

キャンディーズ」は「1970年代」に「活躍」した「女性3人組」の

「アイドルグループ」(「伊藤 蘭」(ラン)「田中 好子」(スー・故人)「藤村 美樹」(ミキ)です。

「食べてしまいたいほど可愛い・3人娘」の「意味」から「キャンディーズ」と

「名付けられ」ました。

   (私は、それ程には「可愛い」とは、思いませんでした)

 

「1,973年」に「あなたに夢中」で「デヴュー」しました。

「人気バラエティー番組」「8時だよ全員集合」に「レギュラー出演」しました。

「当初」「スー」が「メインボーカル」を、務めていましたが「ラン」に「お姉さん」の

「イメージ」が「有る」との「ファン層」が、多かった為「ラン」を「メインボーカル」

  にする事と、なりました。

 

「1,975年」に「5枚目のシングル」「年下の男の子」が「ヒット」し

オリコンベスト10入り」しました。

 

「1,976年」に「春一番」が「ヒット」しました。

「1,977年」に「やさしい悪魔」「暑中お見舞い申し上げます」「ハートのエースが出てこない」

   が「連続ヒット」しました。

 

「5枚連続・ミリオンセラー」を「叩き出し」「怪物」とまで言われた「ピンクレディ」とは

「ファン層」が「異なり」「2大勢力」が「誕生」しました。

 

「1,977年」「夏」「絶頂期」に、あったにも「拘わらず」「普通の女の子に戻りたい」という

「名文句」と、共に「解散宣言」しました。

「解散曲」(ラストソング)と、なった「微笑みがえし」は「解散を惜しむ」「熱狂的なファン」の

「支持を受け」「最初で最後」の「オリコン・1位」を「獲得」しました。

 

「作詞家」の「阿木 燿子」(「あぎようこ」・ジュディー・オングに、似た美人) は

「ヒット曲」「春一番」「ハートのエースが出てこない」を「意識した」のか

「微笑みがえし」の「歌詞」の、中に

春一番」・「ハートのエースが出てきましたよ」という「言葉」を「挿入」し

「解散曲」を「イメージ付け」しました。

「微笑みがえし」は「失恋ソング」では、無く「ファン」との「お別れの歌」です。

 

  私が「現役」だった頃「頼んだ事をやってくれた人」

「頼みもしない」のに「私の気持ちを察して」「先廻りして」「やってくれた人」に

「お礼」は「微笑みがえし」で「いいですか?」と、「よく言い」ました。

「ほとんどの人」は「そんなお返しはいりません」と「断り」ました。

 

 

キャンディーズ」「微笑みがえし」 「作詞」:「阿木 燿子」「作曲」:「穂口 雄右」

 

春一番が  掃除したての サッシの窓に

ほこりの渦を  踊らせてます

 

机  本箱 運び出された  荷物のあとは

畳の色が  そこだけ若いわ

 

お引っ越しの  お祝い返しも

済まないうちに  またですね

 

罠にかかった  うさぎ みたい

いやだわあなた  すすだらけ

おかしくって  涙が出そう

1・2・3 (ワン・ツー・スリー) あの三叉路で

1・2・3   軽く手を振り

私達  お別れなんですよ

 

タンスの陰で  心細げに

迷子に なった

ハートのエースが  出てきましたよ

 

おかしな ものね

忘れたころに  見つかるなんて

まるで青春の  想い出そのもの

 

お引越しの  お祝い返しも

今度は二人  別々ね

 

何年たっても  年下の人

いやだわ  シャツで顔ふいて

おかしくって  涙が出そう

 

1・2・3(イチ・二・サン)3ツ数えて

1・2・3  見つめ合ったら

私達  お別れなんですね

 

お引越しの  お祝い返しは

笑顔にして  届けます

 

やさしい悪魔と  住みなれた部屋

それでは鍵が  サカサマよ

おかしくって  涙が出そう

1・2・3(アン・ドウ・トロワ(フランス語の数え方)三歩目からは

1・2・3それぞれの道

私達  歩いて行くんですね

歩いて  行くんですね

 

 

※「ムカゴ栽培」

 

「梅雨明け」から「一気に」「気温が上がって」きました。

「田村さん」の「池掃除」をしていたら「熱中症らしき症状」に、なったので

「最低限の事」だけ、やって「終わり」に、しました。

 

「ムカゴ栽培」の「圃場」(ほじょう・作物を育てる場所」を「手で触る」と「熱くて」

  すぐに「手を引っ込めて」しまいました。

「真夏の海の砂浜」を「裸足で歩く感じ」てした。

 

「一応」「遮光ネット」を「敷いて」有りますが「焼け石に水」でした。

「圃場」は「西向き」に「セット」したので「夕方遅く」まで「強い日差し」が

「差し込んで」いました。

 

  私は「ムカゴのツルが枯れた」のは「長雨による事象」と、「考えて」いました。

  しかし「私の考え」は「全くの方向音痴」でした。

「ムカゴ」が「やられた」のは「長雨の合間」に、あった「真夏の日照り」でした。

「常識的な考え方」が「あざ笑うよう」に、私を「誤った方向へ」「誘い」(いざない) ました。

「決して」「二度と」「騙され」ません。

 

「ムカゴ栽培」は「自然という大きな力の前」では「私の力」は「余りにも「無力」でした。

  私の「完敗」でした。

「手の施しよう」が「有り」ません、でした。

 

「ムカゴ」は「ツルを伸ばす」為「養分を使いきり」「シワクチャな小さな塊」に

  なっていました。

「復活する事」は有り得ません。

  私は「全部を廃棄」せざるを、得ません

 

 

※「自然薯栽培」

 

「害虫の消毒」が「功を奏し」「被害」は「何とか」「食い止める事」が「出来」ました。

「北向きの早く日が陰る場所」で「大量の砂を使った」せいか

「何とか」「踏み止まって」います。

 

「種イモの養分」が「ほとんど無くなり」「新たな栄養を補給する」為に

「8月中」に「2〜3回」「追肥」(ついひ) しなければ、なりません。

   しかし「私の行方」を「雑草」が「拒んで」(こばんで) います。

 

「3日前」には「足首位だった」のに「今日」は「膝の上」まで「雑草」が「伸びて」いました。

「圃場」は「草の種一つない砂」を「使ったにも拘らず」「雑草が、はびこって」います。

追肥」は「遮光ネット」を「めくって」「砂の上に直接肥料を撒かなけれ」ば、なりません。

「雑草が邪魔」して「遮光ネット」が「めくれ」ません。

 

  私は「意を決して」「圃場」の「雑草取り」を「始め」ました。

「日が陰り涼しくなった」「3時間位」「作業しました」が『「全体の「6分の1」』位しか

「捗り」(はかどり) ません、でした。

「明日になれ」ば「今日取った雑草」が、また「生えてくる」と、思います。

  私は「果てしない」「雑草との闘い」を「覚悟」しました。

 

「自然薯のツルの為に作った」「誘導棒」には「ツル性の雑草」が「巻き付いて」

「上に上に」と「伸びて」います。

「自然薯」より「ズット元気」です。

「自然の風景」と「ほとんど」「変わり」ません。

「栽培している事」を「忘れて」しまいそうです。

 

「らんちゅう・飼育」「自然薯・栽培」「ブログ」「テレビドラマ」の「何れかを」

「犠牲にしなければ」「虻蜂取らず」(あぶはちとらず) に、なりそうです。

  私は「欲をかきすぎ」た、ようです。

「自分なら出来る」と「過信」して、しまったようです。

 

  それにしても「雑草の生命力」には「凄まじい物」(すさまじいもの) が、有ります。

  私は「羨ましい」(うらやましい) と、「重い」ました。

 

 

「神野 美伽」(しんの みかは「雑草の歌」を、歌いました。

「雑草の歌」を「作詞」したのは「美空 ひばり」(加藤 和枝)です。

「もちろん」「美空 ひばり」の「歌」です。

「この歌」を「カバー」しているのは「神野 美伽」だけです。

「美空 ひばり」は「神野 美伽」の「歌唱力」を「高く評価」したのだと「思い」ます。

 

「神野 美伽」は「1,965年・生まれ」の「演歌歌手」です。

  その「歌唱力」から「ロックフェスティバル」や「海外の音楽イベント」にも

「出演」しました。

「1,984年」に「歌手デヴュー」しました。

 

「1,987年」に「浪花育ち」で「NHK紅白歌合戦」に「初出場」しました。

「2,003年」にも「浮雲ふたり」で「2回目の出場」を「果たし」ました。

レコード大賞・金賞」を「計・3回」「受賞」して、います。

 

 

「神野 美伽」「雑草の歌」「作詞」:「加藤 和枝」(「美空 ひばり」の「本名」)

「作曲」:「遠藤 実」

 

生まれて 今日まで  耐えてきた

こんな涙を  誰が知る

踏まれながらに  生き抜いて

路ばたに はえる 草のよな

強い 強い  女に なりました

 

咲かずに 散っては  いけないと

そんな自分に  むち を打つ

辛い この世を  生き抜いて

路ばたに はえる  草のよな

強い  強い  女になりました

 

「セリフ」

 

私の この体の中 には

日本に生まれた 古い血が 流れています

そんな人間の 少なくなった 今日でも

おてんとう様 だけは

私を照らして くれました 

 

辛い この世を  生き抜いて

路ばたに はえる  草のよな

強い  強い  女なりました

 

 

「しっぺ返し」を「英語」で「言う」と

 

「Back」

 

と、言うそうです。

 

 

何気なく使っている言葉の意味

「やってみせ」

         ⇩

「言って聞かせて」

         ⇩

「させてみて」

        ⇩

「ほめてやらねば」

        ⇩

「人は動かじ」

 

(「山本 五十六」(やまもと いそろく)「言」)        「人材育成の哲学」

 

1.「やってみせる」

 

「人に物を教える時」には、まず「自分が手本となって」「相手に見せる事」が「大切」です。

  しかし「実際」には」「これを省く人が多い」と「言われて」います。

「何故なら」「あえて見せるのが面倒くさい」「一々見せなくても」「わかるでしょ」的な

「考え方の人」が「多いから」と「言われて」います。

 

「中には」「本来、しっかりと教育すべき立場」に、いるのに「相手を軽んじているが故」

「適当にあしらう人」も、いるそうです。

「ごくまれに」に「見せたくても」「自分も分からない」から「見せようが無い」という

「ケース」も「有る」そうです。

 

「忙しい事を理由」に

  いくら「マニュアル」を「読ませても」「具体的なイメージ」が「認められ」なければ

「完璧な理解」には「至り」ません。

 

「誰も」が、持つ「五感」の内「最も情報」を「インプット」するのは「視覚」だと

「言われて」います。

「実際の様子」を「見せる事」に、より「相手」が「間違った方向」に「進んで」しまったり

「勘違いする事」無く「スピーディー」に「物事」を「理解させる事」が「可能」に、なります。

 

「子は親の背中を見て育つ」という「ことわざ」が、有ります。

「同じ様」に「部下は上司の背中を見て」育ちます。

「親の背中」「上司の背中」には「責任感」が「詰まっていなければならない」と

   私は、思っています。

 

 

2.「言って聞かせる」

 

「やってみせた後」は「やってみせた事の意味」を「しっかりと説明して」「聞かせる事」が

「重要」です。

  たとえ「手本を見せ」ても「やった事の意味」が「上手く伝わっている」とは「限り」ません。

 

「テレビドラマ」で「職人が弟子」に「見て覚えろ」と「言うシーン」が有ります。

 しかし「教わる側」に「正しく伝わる保証」は、有りません。

「無駄な時間」を「費やしかね」ません。

 

「言って聞かせる」とは「理解させる事」を「意味」しています。

「親」「上司」には「最後までフォロー」する「義務」が「有る」と、私は思います。

「知識」とか「技術」は「共有すべき」だと、私は思います

 

 

3.「させてみる」

 

「見せて・言って聞かせた」後は「相手に実践させる事」が「大切」です。

「ここまでは」「机上の空論」でした。

 

「見せて・言って聞かせた」後は「相手がどれだけ理解してくれているか」を「確認する事」が

「大切」です。

「人によって」「理解度」「解釈の仕方」は「千差万別」です。

 

「何もそこまで付き合わなく」ても「いいじゃないか」・「後は個人の問題だ」「ほっとけ」

  という「考え方」が「一般的」かも、しれません。

  しかし、「教えるからには」「徹底して最後まで」「やり切る」事が「相手に対する敬意」だと

「教えている」気が、します。

 

 

4.「ほめてやる」

 

「失礼な言い方」に、なりますが

「豚もおだてりゃ木に登る」という「ことわざ」が「有り」ます。

「認めてもらう」=「肯定される」=「ほめてもらう」と「嬉しくて」「自信を持ち」

「前向きな気持ち」に、なり「能力以上の事」が「出来るよう」に「なる事」も、有ります。

 

「怒ったり」「しかったり」して「後ろ向きな気持ち」に、させてしまう事と「比較した場合」

「相手が出す結果」には「月とスッポンほどの差」=「雲泥の差」(うんでいのさ) が

「生じるはず」です。

 

  私が「支店を回っていた頃」「褒められるより」「厳しくされた方が嬉しい」と

「答えた人は」「たった1人」しか、いませんでした。

「褒められる事」に「飢えている人達」が「ほとんど」の、ような、気がします。

 

 

5.「人を動かす」

 

「上記のステップ」を、踏み「相手」と「理解・信頼関係」が「築けた」ならば

「やるべき事はやり尽くした」と「考えても良い」気が、します。

「自分について来てくれる人」が「出来た」と「考えてもいい」かも「知れ」ません。

「あなた」が「窮地に立たされた時」「応援団」として「かけつけてくれる」かもしれません。

 

「親・子」「上司・部下」の「信頼関係」は「一朝一夕」にて「成り立つ物では無い」と

「今の私」は「思って」います。

私の背中」を見て「育った」「4人の子供達」「僅かばかりの部下」には

「申し訳なかった」と「心から詫びて」います。

 

「山本 五十六」は「1,984年」(「明治・18年」生まれ) の「海軍・職業軍人」です。

「最終階級」は「元帥(げんすい)・海軍大将」でした。

 

「父親」が「56歳の時に生まれた」事より「五十六」(いそろく)と「命名」されました。

「旧制中学校卒業後」「職業軍人」(武士」を「目指し」「海軍兵学校」に「入隊」しました。

「1,919年」(「大正・8年」) に「アメリカ」の「ハーバード大学」に「留学」しました。

   

「山本 五十六」は「第二次世界大戦」に「強硬に反対した人物」として「有名」です。

「数度の渡米」に、より「日・米」の「軍事力」に「乖離(かいり) が有る」事に

「気付いていた」の、かも「知れ」ません。

 

「1,941年」「山本 五十六」は「連合艦隊・司令長官」の「地位」に、いました。

「1,941・12・8」「日本」は「3国同盟」(「日・独・伊」) の「締結の元」

「ハワイ・真珠湾奇襲攻撃」に、より「アメリカ」と「イギリス」に

「宣戦布告」しました。

 

「1,943年」「日本軍の暗号」を「解読した米軍」は「山本 五十六を殺せば」「日本の士気」が

「下がるだろう」との「思惑」で「山本 五十六」の「指揮する艦隊」を「米軍の航空部隊」が

「一斉に襲い掛かり」「山本 五十六」は「射殺」されました。

「不沈艦」と、言われた「大和」(やまと)「武蔵」(むさし)も「海の藻屑」(うみのもくず) と

   なりました。

 

「海」(戦艦) に「こだわった・日本」は「空」(航空機) を「優先」させた「米軍の発想」に

「敗れ去り」ました。

   そして「終戦」(「1,945・8・15」) を「迎え」ました。

 

 

「増位山  太志郎」(ますいやま  だいしろう) は「男の背中」という「歌」を、歌いました。

 

「増位山  太志郎」は「1,948年生まれ」の「歌手」「元・力士」です。

「7代目・増位山」(大関) の「長男」として「生まれ」ました。

日大一中・高校」の「頃」は「水泳部」に「所属」し「インターハイ」にも「出場」しました。

 

「1,967年」「周囲の反対を押し切り」「父親が親方を務める「三保ヶ関部屋」に

「入門」しました。

「1,968年」「父」の「四股名」(しこな)「増位山」(ますいやま) を「継ぎ」ました。

 

「身長」「182cm」「体重」「116cm」の「均整の取れた体」でした。

「小兵」(こひょう) ながら「多彩な技」で

「1,958年」「史上最年長」の「31歳2ヶ月」で「大関」に「昇進」しました。

「1,981年」「ケガ」により「現役引退」し「親方」として「父の跡」を「継ぎ」ました。

 

「師匠である父親」から

『「相撲だけ」やっていては「人間に幅と奥行き」が「出てこない」』

『「何でもいい」から「やってみろ」と「アドレス」されました。

「1,972年」「現役力士」の時「いろは恋歌」で「歌手デヴュー」しました。

 

「1,974年」「3枚目」の「シングル」「そんな夕子にほれました」が「120万枚」を、超える

「大ヒット」に、なりました。

「1,977年」に「発売」した「そんな女のひとりごと」は「実に」「130万枚」を超える

「大ヒット」に、なりました。

 

「1,976年」に「おゆき」を「歌い」「大ヒット」した「将棋」の

「内藤 国雄」「元棋聖・王位」と、共に「異色歌手」と「言われ」ました。

 

「いつ発売されたのか」「いくら調べても」「分かり」ません。

「男の背中」が「大ヒットしました、

「増位山」の「歌」の中で「よく歌われるカラオケランキング」NO・1」だ、そうです。

 

 

増位山 太志郎」「男の背中」「作詞」:「中山 大三郎」「作曲」:「中山 大三郎」

 

男の肩と  背中には

むかしの影が  ゆれている

恋も  涙も  悲しみも

だれにも言えない  傷あとも

ゆら ゆらゆら  とまり木ゆれて

グラスの底に  明日(あす)をみる

おまえはそんな  男の姿

気付かないけど

 

男の胸の  おくのおく

そのときどきの  夢がある

過去も  未来も  ぼんやりと

忘れてしまう  ときがある

ゆら ゆらゆら  タバコのけむり

見つめて愛に  ゆれながら

おまえのあまい  かおりの中で

休む日もある

 

ゆら ゆらゆら  止まり木ゆれて

グラスの底に  明日をみる

おまえはそんな  男の姿

気付かないけど

 

 

※「杓子定規」(しゃくしじょうぎ)

 

「2019・7・31」「9:30」

  私の「ハローワーク」での「面接予定日・時間」でした。

  私は「前回の面接時」(「7月3日」) に「次回の面接日」を「指定」されました。

 

「以後」「この日程」を「強く意識して」きました。

「ケータイ」には「「1日前」と「2時間前」に「通知」するよう「登録」しました。

  まさか「予定日」を「忘れてしまう」とは「夢にも思いません」でした。

 

  私の「ケータイ」には「頼んでもいない」にも「拘わらず」「ヤフー」から

「いろいろなメッセージ」が「入って」きます。

  私は「テレビドラマ」を「見ている時」・「ブログ」を「書いている時」に、入ってくる

「メール」を「内容を確認しない」まま「消去」してしまう「習慣」が、出来てしまいました。

 

  私は「テレビのコマーシャル」の「時間」・「ブログ」を「書いている」「時間」には

「ケータイ」で「歌」を「聞いて」います。

「メッセージ」は「邪魔」です。

「1日前」に「通知するよう設定」した「メッセージ」は「無意識のうち」に

「観ること」なく「削除してしまった」と、思われます。

 

「当日」「ブログ」の「キリが悪い」にも「拘わらず」「早め」に「寝」ました。

「ワイン」の、せいで「グッスリ」「寝て」しまいました。

「目覚めた時」は「11時」でした。

 

  私は「2時間前」にも「通知する様」「設定して」有りました。

「ケータイ」の「待受画面」に「表示されていた通知」を「見て」

   私は「唖然として」しまいました。

ハローワーク」での「面接時間」は「過ぎて」いました。

 

ハローワーク」に「到着する」までの「所要時間」は「約1時間」です。

「金魚のエサやり」も、せず「忘れ物が無いか」だけ「確認」し「出発」しました。

「言い訳」は「嫌い」なので「電話」は、しませんでした。

 

「最初の説明会」で「面接日に来なかった人」には「失業保険金」は「支給しない」と

「クギを刺されて」いました。

「遅刻した場合」の「説明」は「有り」ませんでした。

ハローワーク」が「杓子定規 (しゃくしじょうぎ) な組織」で「無いこと」を「祈り」

  私は「松山千春」の「歌」を、歌いながら「急行」しました。

 

「現地に着いた時」は「12時・39分」でした。

「館内に入る」と「受付の女性」が「私の顔」を「見て」「ニヤリ」と「笑い」ました。

   私は「素直」に「遅刻した事」を「詫び」ました。

 

「女性」は「今日中なら大丈夫ですよ」と「優しく」「返事してくれ」ました。

  私は「何とか」「今月分」の「失業保険金」を「確保する事」が、出来ました。

「今の私」に、とっては「貴重な収入」です。

 

  私が、為した「あまたの遅刻」の、中で「最大の遅刻」は

「就職活動」での「遅刻」だったと「思い」ます。

  私は「第一志望の会社」の「面接時間」に「寝坊」して「遅刻して」しまいました。

「念の為」「遅ればせながら」「会社に行きました」が「面接を拒否され」ました。

 

  私が「就職活動」した時は「第二次オイルショック」の「真っ只中」でした。

「翌年」には「景気が回復」し「多くの人」が「退職」し「希望の会社」に

「転職」しました。

 

 「止むを得ず」 私は「二次志望の会社」の「面接試験」を「受け」ました。

「面接官」に「志望動機」を「聞かれた」ので「上記の遅刻の話」を

「ありのまま」に、しました。

「一時志望の会社」に「断られた」ので「御社を志望します」と「答え」ました。

 

  私は「大学4年間」に「4日」しか「授業に出席せず」「レポート」だけで「卒業」しました。

「成績」は「優・良・可」の、内の「最低ランク」の「可」でした。

「当然」「面接時のテクニック」など「教わって」いませんでした。

  しばらく「内定」の「連絡が無く」「あきらめて」「次の就職先を探す」

「準備をしていた矢先」「内定の返事」が「有り」ました。

 

「鶏口となるも牛後となるなかれ」(けいこうとなるも ぎゅうごとなるなかれ) という

「ことわざ」が、有ります。

  私は「社会人生活」を「牛後」(「牛の尻) から「スタート」しました。

 

 

「杓子定規」(しゃくしじょうぎ)の「意味」は

 

「一定の基準をすべてにあてはめる」事。

 

「一つのの基準を以ってすべてを決めようとする」事。

 

「形式にとらわれ応用や融通がきかない」事。

 

  だ、そうです。

 

 

「杓子定規」の「類義語」と、しては

 

「柔軟性がない」

 

「融通がきかない」

 

「応用がきかない」

 

「クソ真面目な」

 

頑固一徹な」(がんこいってつな)

 

「頭が固い」

 

「石頭な」

 

「固定的な」

 

「堅物の」

 

辺りが「相当」する、そうです。

 

 

「杓子定規」の「対義語」と、しては

 

「マニュアルにとらわれない」

 

「規則にとらわれない」

 

「応用が効く」

 

臨機応変

 

「柔軟な対応」

 

「こだわりがない」

 

「自由にのびのびと」

 

辺りが「相当」するそうです。

 

 

青い三角定規」は「太陽がくれた季節」という「歌」を、歌いました。

 

青い三角定規」は「1,971年」に「「3人で結成」された「フォークグループ」でそ。

「ヴォーカル」を「務めたのは「西口 久美子」でした。

「1,973年」に「解散」しました。

 

「1,972年」「日本テレビ系で放送」された「青春ドラマ」「飛び出せ青春」の

「主題歌」「太陽がくれた季節」が「売り上げ」「100万枚を超える」「大ヒット」に

  なりました。

「同年」に「レコード大賞・新人賞」を「受賞」しました。

「同年」「第23回・NHK紅白歌合戦」に「白組」で「初出場」しました。

 

 

青い三角定規」「太陽がくれた季節」「作詞」:「山川  啓介」「作曲」:「いずみ  たく」

 

君は何を今  見つめているの

若い悲しみに  濡れた眸(ひとみ) で

にげていゆく白い鳩  それとも愛

君も今日からは

ぼくらの仲間

とびだそう  青空の下へ

 

君は何を今  待ちつづけるの

街の片すみで  ひざをかかえて

とどかない  あの手紙  別れた夢

君も今日からは

ぼくらの仲間

とび込もう  青春の海へ

 

青春は太陽が  くれた季節

君も今日からは  ぼくらの仲間

燃やそうよ

二度とない日々を・・・

燃やそうよ

二度とない日々を・・・

 

 

「山本 五十六」「やってみせ」を「英語」で

 

「yamamoton  56   Try  it 」

 

  と、言うそうです。

 

 

 

 

 

 

何気なく使っている言葉の意味

「捨てる神あれば拾う神あり」

 

「皆さん」は「捨てる神あれば拾う神あり」「すてるかみあればひろうかみあり」と、いう

「ことわざ」を「使った事」は、有りませんか?。

 

「捨てる神あれば拾う神あり」の「意味」は

 

・「見捨てられた事があって」も「一方で助けてくれる人がいる」事の「たとえ」。

 

・「不運な事」「困った事」が、あっても「悲観することはない」事の「たとえ」。

 

・「世の中には様々な人」がいて「自分のこと 」を「見限って」「相手にしてくれない人」も

      いれば「救いの手」を「差し伸べてくれる人」もいる」事の「たとえ」。

 

 ・ 「日本には」「800万」の「神」が、いるのだから「不運な事」「困った事」が、有っても

    「クヨクヨしなくて良い」事の「たとえ」。

 

・「人は縁」によって「生きている」ので「一つの縁」が「断たれても」

    「必ず」「違う縁」が「待っている」事の「たとえ」。

 

    だ、そうです。   

 

 

「捨てる神あれば拾う神あり」の「類義語」と、しては

 

・「渡る世間に鬼はなし」

 

・「浮世に鬼はない」

 

・「地獄にも鬼ばかりはいない」

 

・「倒す神あれば起こす神あり」

 

・「月夜半分闇半分」(つきよはんぶんやみはんぶん)

 

    辺りが「妥当」するそうです。  

 

 

「捨てる神あれば拾う神あり」の「対義語」を「検索」しても「出て来」ません。

 

・「渡る世間は鬼ばかり

 

・「神に見捨てられた」

 

・「頼れる人がいない」

 

・「一人ぼっち」

 

・「はぐれ者」

 

・「一匹オオカミ」

 

・「アウトロー

 

・「異端児」

 

・「孤軍奮闘」

 

・「四面楚歌」(しめんそか)

 

・「拾う神がいなければ、誰か助けて」

 

   辺りが「妥当」な、気がします。

 

 

「いずれ」も「ネガティブ」な「気持ち」を「表している言葉」です。

「誰か助けて」と「呟きたい気持ち」(つぶやきたいきもち) になるほど

「切羽詰まった状態」に「なった時」の「対処方法」と、しては

 

・「助け呼ぶこと」を、恐れない。

 

「悩みの種」は「人それぞれ別」で「深刻度も千差万別」です。

「親や兄弟」「妻や夫」「子供や友人」「あなたと繋がっている人」に

「本気」で「SOS」(誰か助けて) を「発信」して、下さい。

「言わぬことは聞こえぬ」という「格言」の通り「言葉に」して「大きな声」で

「助けを求めて」下さい。

 

・たくさんの情報を取り入れる。

 

「世の中には」「知らないだけで損をしてしまう」事が/「たくさん」あります。

「私は昔から」「知らざる罪」と「言って」来ました。

「情報を得る」・「知識を得る」為には「アンテナ」を「伸ばし、広げる必要」が、有ります。

 

  もし「逃げるのを止め」「立ち向かおうとする気になった」としたら

「あなたと同じ境遇だった人達」の中で「その場から逃げた人」「止まった人」の

「その後」を「知る事」は「有益な情報」と「なり得る」かも、知れません。

 

「多くの情報」で「知識を増やし」「多くの経験を重ねれ」ば「どんどん」と

「たくましく」なると、思います。

 

・「見栄(みえ」を捨てる。

 

「誰か助けて」と「思うほど」「追い詰められている時」に「1番邪魔になる」のが

「見栄」です。

「手を貸して欲しい」「教えて欲しい」と「頼むことは恥ずかしい」という「気持ち」は

「私にも経験があり」「良く理解」できます。

 

「安易な道を選ばず」「仕事の効率性を上げる方法」を「考え」たり「いろいろ調べる」

「姿勢は「大切だと」私は、考えています。

 

  しかし「背に腹はかえられぬ」という「状況に陥る」事が、あるはずです。

  そんな時「あなたの持っている」「小さな見栄・プライド」が「あなたの首」を

「どんどんと締めかね」ません。

 

・まず、抱え込んでいることを一つ下ろす。

 

「誰か助けて」と「心の中で呟く人」は「責任感が強い人」ほど「陥りやすい」と、

  私は、考えています。

「知らず知らずのうち」に「たくさんの事」を「抱え込み過ぎ」て、いるかも知れません。

 

「男性」なら「仕事」「家族サービス」」「重圧」(プレッシャー) 等々。

「女性」なら「家事」「育児」「仕事」等々。

「学生」なら「学業」「部活」「習い事」等々。

 

「人それぞれ抱えている物」「度合い」は、様々ですが「抱え込み過ぎる」と

「いつか必ず」「パンク」して、しまいます。

「全ての事を完璧にこなせる人」は、いません。

 

  だから「心が悲鳴を上げている」と、したら「大量に抱え込んでいる事の内」

「まず一つ」を「周りの人」に「託してみて」下さい。

「少し楽になった気持ち」で「周囲を見渡す」と「更に楽になれる」「良いアイデア」が

「浮かんでくる」かも、知れません。

 

 

「ザ・テンプターズ」は「神様お願い」という「歌」を、歌いました。

「テンプター」の「意味」は『「悪魔」・誘惑者」』です。

 

「ザ・テンプターズ」は「1,967年」に「デヴュー」した「グループ・サウンズ」で

「1,970年」に「解散」しました。

ザ・タイガース」と、共に「グループ・サウンズ」の「最盛期を支えた」

「バンド」の「一つ」です。

 

「1,968年」に「リリース」された「神様お願い」・「エメラルドの伝説 」が「大ヒット」し

ザ・タイガース」に次ぐ「人気グループ・サウンズ」に「登りつめ」ました。

「ヴォーカル」は「萩原 健一」で「ハスキーで、繊細な歌声」が「評判」に、なりました。

「萩原 健一」は「グループ解散後」「俳優」「ソロ歌手」に「転向」しました。

 

萩原健一」は「1,950年・生まれ」の「歌手」「俳優」でした。

「ニックネーム」は「ショーケン」で「沢田 研二」(「ジュリー」)の「2歳年下」でした。

 

「ザ・テンプターズ」「解散後」は「俳優として」「活躍」しました。

「歌手」としても「212曲」の「ソロ・シングル」を「排出」しました。

「1,975年」に「音楽活動」を「再開」し「俳優との両立」を「果たし」ました。

 

「1,975年」「モデル」の「小泉 一十三」(こいずみひとみ) と

「最初の結婚」を、しましたが

「1,978年」に「離婚」しました。

「1,980年」には「歌手」の「いしだ あゆみ」と「2度目の結婚」を、しましたが

「1,984年」に「離婚」しました。

 

「1,983年」には「大麻不法所持」で「懲役1年・執行猶予3年」の「有罪判決」を、受け

「1年間」「全ての活動停止」を「余儀なく」されました。

「1,984年」「飲酒運転」で「人身事故を起こし」「業務上過失傷害罪」で「逮捕され」ました。

「1,985年」「女優・倍賞 美津子」との「ツーショット写真」を「週刊誌」に載せられ

「激昂」(げきこう)し「カメラマンと編集者」を「暴行」し「書類送検」されました。

 

「1,987年」「愚か者」という「歌」が「ヒット」しました。

「2,004年」「再び・交通事故を起こし」「業務上過失傷害罪」で「現行犯逮捕」されました。

「同年」「監督」「スタッフ」「共演者」への「暴行・暴言」を「繰り返した」との「理由」で

「主演した映画」「透光の樹」を「途中降板」させられました。

 

「出演料の半額分」(「750万円」)の「返還」を「プロヂューサー」から「求められた際」に

「一方的に降板させられた」として「拒否」しました。

  更に「プロヂューサー」に「電話をかけ」「国税庁」「「警視庁」「実在する暴力団」の

「名を挙げ」「必ずやっつけますから」と「脅迫する言葉」と、共に*「出演料全額分」

  (「1,500万円」)を「支払えとの言葉」を「留守電に残した」為「制作側」から

「恐喝未遂容疑」で「告訴」され「翌年に」「再び逮捕」されました。

 

「この恐喝事件」で「2,005念・6月」に「懲役1年6か月・執行猶予3年」の

「有罪判決」を「受け」「じばらく」は「活動を休止」する事と、しました。

  しかし「同年・7月」に「テレビ番組内」で「「大麻解禁を支持する発言」を、した事より

厚生労働省」から「注意された」際には「ジョークのつもりだった」と「釈明」しました。

 

「1,996年」には「ヘアーメイクアーティスト」と「3度目」の「結婚」を、しましたが

「2,006年」に「離婚」しました。

「2,008年」には「本格的に」「歌手活動を復帰」しました。

 

「同年」「5年ぶりの映画出演」(「主役・小栗 旬」)で「将軍・足利 義政」役を、演じ

日本映画批評家大賞・特別男優賞」を「受賞」しました。

「2,010年」には「7年ぶりとなる」「ライブ・ツアー」を「行い」ました。

 

「2,011年・2月」「61歳の時」「12歳年下」で「モデル」の「冨田 リカ」と

「4度目の結婚」を、しました。

「ジェットコースター」の様な「人生だったけども」「今後」は

「2人」で「メリーゴーランド」の様な「ゆったりとした人生」を「歩みたい」と

「プロポーズ」した、そうです。

 

「萩原 健一」の「主演映画」「約束」・「雨のアムステルダム」で「共演した」

三国連太郎」は「ショーケン」は「面白かった」なにせ『「彼は何をするか分からない」

「演技」で「毎回全部違う役」を、やってくる」』

「彼のような俳優は二度と現れないだろう」と「評した」そうです。

 

  ある「映画監督」は「ジュリー」には「演技の引き出し」が「1〜2個」しか無いが

ショーケン」は「5個も6個も次々と出てくる」「格の違いを感じた」と、

「述べた」そうです。

 

「2,019・3・26」「都内の病院」で「GIST」(消化管質腫瘍)の為「68歳」で「没し」ました。

「破天荒」(はてんこう)過ぎた人生」は「静かに幕を下ろした」ようです。

 

 

 

「ザ・テンプターズ」「神様お願い」「作詞」:「松崎 由治」「作曲/」:「松崎 由治」

 

アー  アアアー  アー  アアアー

神様  お願いだ

僕の  あのひとに

逢いたい  のさ

 

アー  アアアー  アー  アアアー

神様  つらいんだ

今日も  待ったのに

来な  かった

 

お願いが  あるの 神様

僕を  助けて

 

アー  アアアー  アー  アアアー

神様  もう遅い

あの娘は  遠くの空に

消えたのさ  イエイエイエ

 

さよなら  Baby  good-bye,

さよなら  Baby  good-bye

Baby  good-bye・・・・・

 

 

 

※「ムカゴ・栽培」

 

「以前の・ブログ」で、私は「ムカゴ」が「遅ればせながら」「芽生え」

「ツルを伸ばした」と「書き」ました。

  私は「急いで」「竹を切り出し」ました。

「ツルが竹に絡みつき」「上に上にと伸びられる」ように

「簡単な」「手作りの誘導棒」を「設置」しました。

 

「細い竹」を「使った」「簡易な物」なので「1日もかからず」に「完成」しました。

  (「自然薯の誘導棒作り」は「1週間以上」掛かりました)

「準備万端」でした。

 

「急ごしらえ」の為「ムカゴの培養土」は「傾斜が少なく」なって、しまいました

「結果として」「水はけの悪い環境」になって、しまいました。

 

「種イモ」から「栽培した」「自然薯」は「水はけが良くなる」よう

「傾斜を大きく」して、あります。

「ツル」が「枯れた」「自然薯」は「今のところ」「見当たり」ません。

「自然薯」は「水はけの悪い環境に弱い」「野菜」です。

 

「7月の長雨のせい」だと、思います。

「ムカゴ・栽培」の「ほとんどのツル」は「枯れて」しまいました。

「私の力の及ぶ範囲」を「超えて」いる、気がします。

 

  私は「現実を認めながら」「何ができるか」を「考えて」みます。

「何もせず」「諦めたくは」ありません。

「砂を掘り」「根の状況を確認」し「専門家の意見を参考」にして

「何かできる事はないか?」「考えてみよう」と、思います。

 

「梅雨が明けたこと」を「味方にする方法」が「何かないか?」を「現実に照らし」ながら

「考えてみよう」と、思っています。

「ささやか」で「意味のない」「抵抗」である事は「承知の上」です。

 

  私は「ムカゴ」の「枯れたツル」を見て『「大きな「ためいき」をつき』ました。

 

 

 

「森 進一」は「女のためいき」という「歌」を、歌いました。

 

「1,919・7・28」(日)

 

「森 進一」は「NHK・のど自慢大会」に「ゲスト出演」しました。

「シワクチャな顔」に、なって、しまいました。

「この歌を歌っていた頃」と違い「口数が多く」「明るく振る舞う姿」は

「老醜(ろうしゅう) を、さらけ出している」ようで「逆に哀れみ」を「誘い」ました。

 

  私は「うかつ」にも「テレビを見ながら」「イスの上で気絶したように」「1時間位」

「眠って」しまいました。

  したがって「森 進一」が「何の歌を歌った」のか「記憶に」有りません。

 

 

「森 進一」は「1,947年・11月生まれ」の「歌手」「作曲家」です。

「1,966年」「19歳」の時「女のためいき」で「デヴュー」しました。

「かすれ声」で「女心」を「狂おしく」(くるおしく)「歌う姿」は「衝撃的」で

「心無い人」からは「ゲテモノ」と「酷評」(こくひょう) されました。

 

「1,968年」「花と蝶」で「第19回・NHK紅白歌合戦」に「初出場」しました。

「1,969年」「日本全国の港町の情景を織り込んだ」「港町ブルース」で

「第11回日本・レコード大賞・最優秀歌唱賞」を「受賞」しました。

「同年の・紅白歌合戦」では「トリ」を「務め」ました。

 

  以後「おふくろさん」「年上の女」「襟裳岬」(えりもみさき)「新宿・みなと町」

冬のリヴィエラ」「冬のたび」「さらば友よ」「うそつき」等々

「数え切り上げられ無い」ほど「大ヒット曲」を「世に送り出し」ました。

NHK紅白歌合戦」には「48回・連続出場」しています。

「この記録」は「紅白歴代・1位」と、なっています。

 

「1,980年」「女優」の「大原 麗子」と「結婚」しました。

「1,984年」「大原 麗子」が「女優をやめて家庭に入ること」を「拒んだ」ため

「離婚」しました。

 

「1,986年」「歌手」の「森 昌子」と「再婚」しました。

「森 昌子」は「芸能界から引退」し「家庭に入り」「3人の男の子」を「育て上げ」ました。

「2,005年」「紆余曲折」の末「離婚」しました。

「離婚の原因を作った」のは「森 進一」の「身勝手さ」だと、私は思っています。

 

 

「森 進一」「女のためいき」「作詞」:「吉川 静夫」:「作曲」「猪俣 公章」

 

死んでもお前を  離しはしない

そんな男の  約束を

嘘と知らずに  信じてた

夜が  夜が  夜が泣いてる

ああ  女のためいき

 

どうでもなるよに  なったらいいと

思いなやんだ  時もある

なににすがって  生きるのか

暗い  暗い  暗い灯影(ほかげ)の

ああ  女のためいき

 

男と女の  悲しいさだめ

なんで涙が  つきまとう

ほれているから  憎いのよ

未練  未練  未練一つが

ああ  女のためいき

 

 

「捨てる神あれば拾う神あり」を「英語」で言うと

 

「When one door shuts another opens」

 

  (「一つのドアが閉まると別のドアが開く」)

 

  と、言うそうです。

 

 

 

何気なく使っている言葉の意味

「屁の河童」

 

「皆さん」は「屁の河童」(「へのかっぱ「)という「ことわざ」を「使った事」が

「有り」ませんか?。

 

「へのかっぱ」の「意味」は

 

・「取るに足りない事」

 

・「なんとも思わない事」

 

・「気にもとめない事」

 

  です。

 

 

「へのかっぱ」の「語源」は

 

・「木っ端の火」(こっぱのひ) が「河童の屁」(かっぱのへ) に「転じた」と、する説。

 

   「焚き火の時」(たきびのとき) などに「木の切れっ端(きれっぱし) 」に「火をつけて」も

   「それほど大きな火」が「上がる事」は、ありません。

   「河童の屁」と「同じ様」に「大した事がない」という「意味」が、あります。

 

    この「木っ端の火」(こっぱのひ) と、いう「言葉」が「河童の屁」(かっぱのへ)  へと

  「更に」「へのかっぱ」へと「ダジャレ」の様に「変化して行った」と「言われて」います。

 

・「水の中の屁」(みずのなかのへ) から「転じた」と、する説。

 

   「河童」は「水の中に住む」「妖怪」(ようかい) なので「屁 (へ) も、水の中でする」と

   「考えられ」ます。

   「水の中でする屁」には「勢いが無く」「臭いも拡散されてしまう」ので

   「大した事がない」という「意味になった」という説も、あります。

 

    そして「河童の屁」が「屁の河童」に「逆転した」のは「江戸時代に」そのような

   「言葉遊び」が「流行った(はやった) せいだと「言われて」います。

 

 

「へのかっぱ」の「類似語」と、しては

 

・「平気の平左」(へいきのへいざ)

 

・「余裕のよっちゃん

 

   辺りが「妥当」だ、そうです。

 

 

「へのかっぱ」の「対義語」を「検索」しても、出て来ません。

 

・「重要な事」

 

・「大事な事」

 

・「ショックを受ける事)

 

   辺りが「妥当」は、気がします。

 

 

 

『「藤本 ともひこ」・「中川 ひろたか」』と、いう人達は「へのかっぱ」という

「遊び歌」) を、歌ったそうです。

 

「藤本 ともひこ」は「絵本作家」だ、そうです。

「1,961年・生まれ」だ、そうです。

 

「1,991年」「講談社・絵本・新人賞」を「受賞」し「作家・デヴュー」したそうです。

  その後「絵本」「読み物」「紙芝居」「作詞」「保育遊び」などの「創作活動」を

「始めた」そうです。

 

「2,011年」「NHKEテレ」の「お母さんといっしょ」で「ねこときどきらいおん」

「げんきタッチ」「おさんぽペンギン」等の「遊び歌」が「大好評」に、なったそうです。

 

「2,015年」’NHKEテレ」「いないいないばあっ」に

「新しい人形劇の設定世界観」+「キャラクターデザイン」+「セットデザイン」+「原作」を

「担当」したそうです。

 

「にこにこ  んぱ」の「作詞」「遊びロケコーナーのBGM」「作詞作曲」を

「担当した」そうです

 

「中川 ひろたか」は「1,954年生まれ」の「日本の絵本ライター」「シンガーソングライター」

  だ、そうです。

「1,973年」に「上智大学・法学部」に「入学」し「3年生の時」「中退した」そうです。

「1,976年・4月」「家庭保育園」の「用務員」として「就職した」そうです。

 

「1,979年」「初の著書」「あそびうたがいっぱい」を「刊行」し「全国の保育園」に

「広まった」そうです。

「1,994年」「こどもチャレンジ・ポケット」で「絵本作家デヴュー」した、そうです。

 

「さつまのおいも」は「書籍化」され「3ヶ月間」で「1万5,000部」が「売れる」

「大ヒット」と、なったそうです。

「作品」は「小学校の」「国語・音楽」の「教科書」に「採用された」そうです。

 

「1,979年」「バンド」「こどもどあーず」を「結成し」「歌手活動」を「開始した」そうです。

「2,011年・4月」「東日本大震災復興支援」として「みんなともだちプロジェクト」を

「立ち上げ」「社会支援」を、したそうです。

 

「テレビ出演」と、しては

 

・「「ワンツー・どん」(「NHKEテレ」)

 

・「ひらけ!ポンキッキ」(「フジテレビ系」)

 

・「ポンキッキーズ」(「フジテレビ系」)

 

・「題名のない音楽会」(「テレビ朝日系」)

 

・「いっぽ!」(「テレビ東京開始系」)

 

   が、あるそうです。

 

 

「藤本 ともひこ・中川 ひろたか」「へのかっぱ」

「作詞」:「藤本 ともひこ」「作曲」:「中川 ひろたか」

 

はらへった  めしくった

たまげった  へのかっぱ

わらうとまけよ  じゃんけんぽん

いちふじ  にたか  さんなすび

おしょうゆかけて  いただきます

むしゃむしゃ  むしゃむしゃむしゃ

 

いしけった  なんてこった

ころげった  へのかっぱ

わらうとまけよ  じゃんけんぽん

いちふじ  にたか  さんなすび

ケチャップかけたら  いただけない

うしゃうしゃ  うしゃうしゃうしゃ

 

はらへった  めしくった

たまげった  へのかっぱ

わらうとまけよ  じゃんけんぽん

いちふじ  にたか  さんなすび

おしょうゆかけて  いただきます

むしゃむしゃ  むしゃむしゃむしゃ

 

 

 

「2,019・7・26」(金)

 

「2,019・6・12」に

  私は「師匠」から「1軍の稚魚・25匹」「2軍の稚魚・5匹・」「3軍の稚魚・35匹」

「計・65匹」を「譲ってもらい」ました。

 

「2軍・3軍の稚魚・40匹」は「田村さんの池で「飼育してもらって」います。

  (「池の水替え」は「私がやっています)

 

「将来性が高い」「1軍の稚魚・25匹」は「家の2階のベランダ」で「飼育して」いました。

プランター」で「作った水槽」で「1個の水槽当たり・5匹」「5個の水槽」

「他に」「水替え用の水槽・5個」「計・10個の水槽」で「飼育して」いました。

 

「当日」は「ワインを飲みながら」「明け方」に「ブログを書き終わり」そのまま、寝ました。

「昼近くに目覚め」「金魚を見回り」ました。

 

  すると「1個の水槽の金魚・5匹」が「死んで」いました。

「死後数時間経っており」「体は硬直して」いました。

「水槽の水は」は「腐って」いました。

「阿鼻叫喚 (あびきょうかん) の世界」を「見ている」気が、しました。

 

「金魚の大きさ」は「約5cm位」で「丸々と」太って、いました。

「1軍の金魚だけ」あって「背中」は「拓殖の櫛」(つげのくし)の様に「綺麗な放物線」を

「描いて」いました。

「尻尾は」「180度開いて」いました。

「らんちゅうの特徴」である「頭のコブ」は「もう少し大きくならない」と、出ません。

 

私が「手塩にかけて育ててきた」「金魚」です。

私は「夢を見ているのかと」すぐには「現実を受け止めることが」出来ません」でした。

私は「ベランダの水槽」で「この様な光景を見た事」が、有りませんでした。

しかし、しばらくして「間違いなく現実」だと「我を取り戻し」ました。

 

「私の不運」は「何時も」「いくつかの偶然」が「ダメを押すように重なった時」に、

「必ず起き」ます。

 

・「昨夜、エサやりに行った時」「水槽の水」は「既に替え時」だったにも「拘らず」

   「直ぐに実行せず」「明日へと」「先延ばしして」しまった事。

     (「水替え用の水槽」の「準備は出来て」おり「1分もあれば」

   「 金魚を移し替える事」が「可能」でした)

 

・「昨夜、エサやりに行った時」「エアーホース」に「つまづいた勢い」で

   「エアーポンプ」から「エアーホース」が「外れ」「水槽に酸素に届いていない事」を

   「見逃して」しまった事。

     (「酸素さえ」あれば「極度の水質の悪化」は「起きません」でした。

 

・「新鮮な水」「酸素の供給」の「いずれかが、為されていれば」

   『「悲劇的で「悲惨な」結末」』(「トラジックエンド」) は

   「起こらなかった」と、思っています。

 

  「特に」「直ぐに実行」を「モットー」に、しているだけに「たとえ酔っていたとしても」

  「水替えを先延ばしにした事」に「自責の念」を「禁じ得」ません。

 

「普段から」「軽微なミス」を、しても「神様」は「笑って許して」くれましたが

  さすがに「同時に2つの重要なミスを重ねては」「神様」は「許しては」くれませんでした。

 

  しかし「今の私」は「昔とは」「一味」「違い」ます。

   私は「多くの経験」を「積んで」来ました。

「失意のどん底」から「這い上がる事」など「お安い御用」(おやすいごよう) です。

 

「5匹の金魚が死んだ」という「ネガティヴな気持ち」を

『「まだ「20匹も生き残っている」』と「ポジティブな気持」に「切り替え」ました。

「5匹の金魚の死」など「今の私」に、とっては「へのかっぱ」です。

  私は「負け」ません。

 

 

ZARD」は「負けないで」という「歌」を、歌いました。

「負けないで」は「人生の応援ソング」・「スポーツの応援ソング」の

「上位にランクイン」しています。

「聞いている人に」「希望」と「勇気」を、与え「励まし」ます。

 

 

ZARD」(ザード) は「1,991年」「坂井 泉水」(さかい いずみ) を、中心に「結成され」た

「音楽ユニット」です。

「坂井 泉水」は「1,990年代」に「女性ソロアーティスト」として

「最も多くのCDを売り上げた歌手」です。

   私は「ZARD」の「他のメンバーの事」は「知り」ません。

 

「坂井 泉水」は「1,967年・2月生まれ」です。

「20歳代前半」まで「モデル」や「レースクイーン」として「活動して」いました。

「歌手になりたいという」「希望を捨てきれず」「自身が結成したユニット」「ZARD」の

「ヴォーカル」として「歌手デヴュー」しました。

 

「坂井 泉水」は「極度の・あがり症」だった為「ほとんど」「マスメディア」に

「登場」せず「ライブ」も、ほとんど、行いませんでした。

 

「2,000年以降」「子宮筋腫」「卵巣膿腫」「子宮内膜症」と「次々に」「罹患」しました。

「2,006年・4月」「子宮頸癌」(しきゅうけいがん) を「発症」しました。

「同年・6月」「卵巣の摘出手術」を「受け」「7月」に「退院」しました。

 

「2,007年」「ガン」が「肺」へ「転移」し「再入院」しました。

「同年・5月」「入院先の病院」で「3メートルの高さの階段」から「落下」し「後頭部」を

「強打し」「脳挫傷」(のうざしょう) の為「40歳で死去」しました。

 

「東京」と「大阪」に「設置された献花台」には「約1万人」が「記帳」「献花」に

「訪れ」ました。

「美人薄命」と、言われました。

 

 

 

ZARD「負けないで」「作詞」:「坂井 泉水」「作曲」:「織田 哲郎」

 

ふとした時間に  視線がぶつかる

幸福 (しあわせ) の ときめき  覚えているでしょ

パステルカラーの  季節に恋した

あの日のように  輝いてる  あなたでいてね

 

負けないで  もう少し

最後まで  走り抜けて

どんなに  離れてても

心は  そばにいるわ

追いかけて  遥かな夢を (はるかなゆめを)

 

何が起きたって  ヘッチャラな顔して

どうにかなるサと  おどけてみせるの

“今宵 (こよい) は私 (わたくし) と一緒に 踊りましょ”

今も  そんなあなたが好きよ  忘れないで

 

負けないで  ほらそこに

ゴールは 近づいてる

どんなに  離れてても

心は  そばにいるわ

感じてね  見つめる瞳

 

負けないで  もう少し

最後まで  走り抜けて

どんなに  離れてても

心は  そばにいるわ

追いかけて  遥かな夢を

 

 

負けないで  ほらそこに

ゴールは  近づいてる

どんなに  離れてても

心は  そばにいるわ

感じてね  見つめる瞳

 

 

「へのかっぱ」を「英語」で「言う」と

 

「I don't think anything of it」

 

  (「なんとも思わない」)

 

  と、言うそうです。

 

 

 

何気なく使っている言葉の意味

あんぽんたん

 

「皆さん」は「あんぽんたん」という「言葉」を、知っていますか?。

 

「2010・7・23」(火)

「火曜テレビ・ドラマ」『「Heaven」?〜ご苦楽レストラン〜』「第3話」の

「放送」が、ありました。

 

「主役」は「石原 さとみ」」が「演じる」「仮名子」と

「福士 蒼汰」が「演じる」「伊賀」です。

 

「Heaven」(ヘブン)の「意味」は「天国」「極楽」(ごくらく)です。

「ご苦楽レストラン」の「ご苦楽」は「極楽レストラン」を「引っ掛けた」のだと、思います。

  とにかく「この番組」は「ダジャレ」ばかりの「コメディードラマ」です。

 

「第3話」で「伊賀の母親役」を「演じた」「財前 直見」が「レストラン」に「現れ」

  いきなり「息子の伊賀」を「大声」で「この、あんぽんたん」と「怒鳴り付け」ました。

「他の役柄を演じた人達」は、この「あんぽんたん」という「言葉」に「首をひねり」ました。

 

あんぽんたん」という「言葉」は「子供の頃」「私が」「父・母」に「怒られた時」に

「よく言われた言葉」でした。

「友達と喧嘩した時」にも「お互い」に「この言葉を使い」「ののしり合い」ました。

 

あんぽんたん」と、いう「言葉」は、「私達の地方のみが使う方言」だと「思っていた」ので

「全国放送のテレビ」に「出てきてビックリ」しました。

 

 

あんぽんたん」( 安本丹) )の「意味」は

 

・「バカな人」の事。

 

・「間が抜けている人」の事。

 

・「愚か者を、ののしる言葉」の事。

 

   だ、そうです。

 

 

あんぽんたん」の「類義語」と、しては

 

・「ばかもの」

 

・「すかたん」

 

・「あほう」

 

・「まぬけ」

 

・「とんま」

 

・「うすばか」

 

・「うすのろ」

 

・「あほんだら」

 

・「ぼんくら」

 

・「おたんこなす」

 

・「ノー天気」

 

  等々が、あるそうです。

 

「上記の言葉」を「面と向かって言われるより」「あんぽんたん」と、言われた方が

「多少なり」とも「救われた気」が、します。

 

 

「子供同士の喧嘩・ののしり合い」の時「よく使われた言葉」に

「お前の母ちゃん でべそ」という「言葉」が、有りました。

 

「子供の頃」は「何気無く使った言葉」です。

「今、考えてみる」と「ひねくれた考え方」も、できます。

  私の「母ちゃん」が「でべそ」で「ある事を知る」為には「母ちゃんの裸」を、見なければ

「分かり」ません。

 

  つまり「俺の父ちゃん」「或いは」「自分の知り合いの男の大人」は

「お前の母ちゃんの裸」を「知っているんだぞ」という「意味」にも「捉えられ」ます。

「今の子供達」が「この言葉を使っているかどうか」知りません。

 

「指切りげんまん」の「本当の意味」も、そうですが「子供の純真さ」を「壊す事」は

「絶対にしないほうがいい」と、思います。

 

 

あんぽんたん」の「対義語」と、しては

 

・「知性が優れている」

 

・「感性が優れている」

 

・「感受性が優れている」

 

・「ムダがない」

 

  等々が、あるそうです。

 

 

あんぽんたん」の「話」を「これ以上続ける事」は「出来そうも」有りません。

「父」・「母」は「死んだので」「言われることはありません」が

「この言葉を知っていた妻から」「あんぽんたん」と「言われそうな気が」します。

   私は「あんぽんたん」と「怒られぬ様」「頑張る」しか、ありません。

 

 

「西方 裕之」は「恋のあんぽんたん・昭和編」という「歌」を、歌いました。

You Tube」を,煮ると「電飾した帽子・背広」を「着衣」し、「ふざけながら」

「歌って」います。

 

 

「西方 裕之」は「1,961年生まれ」の「演歌歌手」です。

「地元である」「佐賀県で開催された」「ザ・スターカラオケ選手権」で「優勝し」

「審査委員長」で、あった「作曲家」「徳久 広司」に「スカウト」され「上京」しました。

 

「徳久 広司」は「日本作曲家協会理事長」を「務める」「大作曲客」です。

千葉テレビ放送」の「カラオケ番組」で「審査委員長」を「務めて」います。

「美空 ひばり」「坂本 冬美」「細川 たかし」「石川 さゆり」「都 はるみ」「美川 憲一」等々

「数多くの人」に「楽曲を提供して」います。

 

「西岡 裕之」は「1,987年」「北海水滸伝」で「デヴュー」し「新宿音楽祭賞」

「横浜音楽祭賞」を「受賞」しました。

「1,989年」「遠花火」が「ヒット」し「名前が知られる様に」なりました。

 

「1,993年」「恋路川」で「日本有線大賞」を「受賞」しました。

「2,003年」「湯けむりの宿」で「オリコン演歌チャート」の「1位を獲得」しました。

「以後も」「演歌一筋」で「活動して」います。

 

「この歌 (恋のあんぽんたん・昭和編) を歌っている人」は「他にはいない」様です。

「演歌歌手」である「西岡 裕之」が「何時」「何故」「この歌を歌ったのか」

「いくら調べてみて」も「分かり」ません。

 

「若い人達」に、とっては「ちんぷんかんぷん」な「歌詞」かも。しれません

  しかし「私達の年代の人」に、とっては「当時流行った」「流行語」ばかり、です。

 

「特に分かりづらい」のは「タリラリラーン」

  かも、知れません。

「この言葉」は「天才漫画家」と、言われた「赤塚 不二夫」が「書いた」

バカボンのパパ」の、中で「レレレのおじさん」が「言っていた言葉」です。

 

 

「西方 裕之」「恋のあんぽんたん・昭和編」「作詞」:「高田  文夫」「作曲」「佐瀬  寿一」

 

恋の  あんぽんたん

ヤングな  あの娘(こ)に  ほの字だぜ

いかれポンチな  あんぽんたん

冗談は  よし子さん

合点承知の助 (がってんしょうちのすけ)

同伴喫茶で

AからBへ  ウルトラC

メトロに乗って  レトロに決めて

ここいら辺で  ドロンです

あんぽんたん  あんぽんたん

すっとこどっこいしょ  すっとこどっこいしょ

 

恋の  あんぽんたん

へっぽこ昭和に  恋してる

ナウい シミチョロ  あんぽんたん

フィバー ハッスル  パンタロン

テケテケ エレキ  グロッキー

おたんこなすで

メートルあげて  ジンフィーズ

ペアルックの  アベックは

ここいら辺で  ドロンです

あんぽんたん  あんぽんたん

さしずめこの世は  あんぽんたん

すっとこどっこいしょ  すっとこどっこいしょ

 

恋の  あんぽんたん

四の五の (しのごの)  言っても 愛してる

やけのやんぱち  あんぽんたん

来たか 長さん (きたか ちょうさん)  昭和好き

サイケできめた  ボインちゃん

プラネタリウム

おピンクムード  タリラリラーン

私はどうせ  おじゃま虫

ここいら辺で  ドロンです

あんぽんたん  あんぽんたん

さしずめこの世は  あんぽんたん

すっとこどっこいしょ  すっとこどっこいしょ

すっとこどっこいしょ  すっとこどっこいしょ

あ〜

 

 

 

「今日は」「久しぶり」に「太陽の光がいっぱい注ぎ」「日焼けして」しまいました。

「仕事もはかどり」ました。

「台風が通り抜けた来週」には「梅雨明け宣言」が、ありそうです。

  私は「忙しくなり」ますが「楽しみ」でも、有ります。

 

 

 

「アラン・ドロン」は「太陽がいっぱい」という「映画」で「主役を演じ」ました。

 

太陽がいっぱい」(「原題」「Plein soleil」(「フランス語」で「太陽が輝いている」) は

「1,960年」に「フランス」と「イタリア」の「合作映画」です。

「この作品」で「アラン・ドロン」は「世に広く知られ」「俳優のキャリア」を

「駆け上がっていく」「きっかけ」と、なりました。

 

アラン・ドロン」は「1,935年・生まれ」の「フランス」の「映画俳優」(男優) でした。

「1,957年」「22歳の時」「女優」の「ブリジット・オーベル」から

『「カンヌ映画祭」が「開催」されているから「ぶらぶら」して、みたら?』

『「あなた程」の「美貌」なら「監督の誰か」から「声がかかる」かも知れないわよ?」と

「言われ」ました。

 

アラン・ドロン」は「暑かった」ので「上半身裸のまま」「カンヌ」を「歩いて」いました。

  すると『「過去」に「ハリウッドの大スター」を「発掘した」

アメリカ合衆国の一流エージェント」』から「スカウト」されました。

 

「3日後」に「スクリーンテスト」を「受け」合格」し「アメリカ合衆国」での「成功」の

「折り紙付き」(保証付き) を、もらいました。

  しかし「アラン・ドロン」は「私はフランス人」なので、先ずは「フランスで勝負したい」と

「回答を保留」しました。

 

「同年」「フランス映画」「女が事件にからむ時」で「主演デヴュー」しました。

  (「共演」「ジャンポール・ベルモント」)

「1,959年」「24歳の時」「西ドイツの若手女優スター」「ロナー・シュナイダー」と

「同棲し、婚約」しましたが「4年後」に「破棄」しました。

 

「1,960年」「ルネ・クレマン」「監督」の「伝説の映画」と、なった「太陽がいっぱい」に

「主演」しました。

「ニーノ・ロッタ」の「ピアノ主題曲」と、共に「世界的ヒット」に、なりました。

 

「史上最高」の「美男・男優」は「アラン・ドロン」だと、いう「私の考え」は

「今も、変わりあり」ません。

  (「他の俳優」と「何処が」「どう違う」かと「聞かれても」「答えられ」ません)

「私の青春時代」の「象徴だった」せいかも、知れません。

 

 

「徳永 英明」(とくなが ひであき) は「太陽がいっぱい」という「歌」を、歌いました。

「私の望んいる」「真夏の太陽」では「無く」「春の太陽」ですが。

 

「徳永 英明」は「1,961年2月生まれ」の「シンガーソングライター」「作曲家」「俳優」です。

「1,986年」「Rainy Blue」(レイニー・ブルー) を「歌い」「デヴュー」しました。

「1,988年」に「初の日本武道館コンサート」を「実現」しました。

 

「1,990年」「テレビアニメ」「ドラゴンクエスト」の「主題曲」「夢を信じて」が

「大ヒット」しました。

 

「2,001年」「原因不明の難病」「もやもや病」(脳血管障害の一種」を、「発病」しました。

「2,006年」「デヴュー20年」にして「壊れかけのRadio」(壊れかけのラジオ) を、歌い

NHK紅白歌合戦」に「初出場」しました。

「以後」「計・10回」「出場して」います。

 

 

「徳永 英明」「太陽がいっぱい」「作詞」:「山田 ひろし」「作曲」:「徳永 英明」

 

誰でもないよ  あなたのことを

愛してる  太陽がいっぱい

 

あなたの  笑顔が

誰かを  暖めるから

哀しい  気持ちに

背中を  あずけないで

 

ひとりぼっちなんか  させないよ

名前を呼んで  連れ出すよ

窓を開け  靴を履き  行こう

 

誰でもないよ  あなたのことを

待ってる  約束をしたろ

ごらんよ  太陽がいっぱい

 

誰でも  誰かの

太陽に なれるんだって

 

雪の下で眠る  種達は

やがて来る春を  知ってる

ここにいる  ここにいる  みんな

 

どこでもないよ  あなたの側で (そばで)

同じ  空を見上げてる

そうだよ  太陽がいっぱい

 

転ばないで歩く  ことだけが

偉いわけじゃないさ  そうだろ

仰向けで  笑えたら  いいね

 

誰でもないよ  あなたのことを

愛してる  約束をしたろ

 

だから  泣いていないで

そうさ  微笑んでごらん

春だよ  太陽がいっぱい

 

 

あんぽんたん」を「英語」で

 

「bone head」

 

( バカ、間抜け、とんま )

 

と「言う」そうです。