何気なく使っている言葉の意味

「屁の河童」

 

「皆さん」は「屁の河童」(「へのかっぱ「)という「ことわざ」を「使った事」が

「有り」ませんか?。

 

「へのかっぱ」の「意味」は

 

・「取るに足りない事」

 

・「なんとも思わない事」

 

・「気にもとめない事」

 

  です。

 

 

「へのかっぱ」の「語源」は

 

・「木っ端の火」(こっぱのひ) が「河童の屁」(かっぱのへ) に「転じた」と、する説。

 

   「焚き火の時」(たきびのとき) などに「木の切れっ端(きれっぱし) 」に「火をつけて」も

   「それほど大きな火」が「上がる事」は、ありません。

   「河童の屁」と「同じ様」に「大した事がない」という「意味」が、あります。

 

    この「木っ端の火」(こっぱのひ) と、いう「言葉」が「河童の屁」(かっぱのへ)  へと

  「更に」「へのかっぱ」へと「ダジャレ」の様に「変化して行った」と「言われて」います。

 

・「水の中の屁」(みずのなかのへ) から「転じた」と、する説。

 

   「河童」は「水の中に住む」「妖怪」(ようかい) なので「屁 (へ) も、水の中でする」と

   「考えられ」ます。

   「水の中でする屁」には「勢いが無く」「臭いも拡散されてしまう」ので

   「大した事がない」という「意味になった」という説も、あります。

 

    そして「河童の屁」が「屁の河童」に「逆転した」のは「江戸時代に」そのような

   「言葉遊び」が「流行った(はやった) せいだと「言われて」います。

 

 

「へのかっぱ」の「類似語」と、しては

 

・「平気の平左」(へいきのへいざ)

 

・「余裕のよっちゃん

 

   辺りが「妥当」だ、そうです。

 

 

「へのかっぱ」の「対義語」を「検索」しても、出て来ません。

 

・「重要な事」

 

・「大事な事」

 

・「ショックを受ける事)

 

   辺りが「妥当」は、気がします。

 

 

 

『「藤本 ともひこ」・「中川 ひろたか」』と、いう人達は「へのかっぱ」という

「遊び歌」) を、歌ったそうです。

 

「藤本 ともひこ」は「絵本作家」だ、そうです。

「1,961年・生まれ」だ、そうです。

 

「1,991年」「講談社・絵本・新人賞」を「受賞」し「作家・デヴュー」したそうです。

  その後「絵本」「読み物」「紙芝居」「作詞」「保育遊び」などの「創作活動」を

「始めた」そうです。

 

「2,011年」「NHKEテレ」の「お母さんといっしょ」で「ねこときどきらいおん」

「げんきタッチ」「おさんぽペンギン」等の「遊び歌」が「大好評」に、なったそうです。

 

「2,015年」’NHKEテレ」「いないいないばあっ」に

「新しい人形劇の設定世界観」+「キャラクターデザイン」+「セットデザイン」+「原作」を

「担当」したそうです。

 

「にこにこ  んぱ」の「作詞」「遊びロケコーナーのBGM」「作詞作曲」を

「担当した」そうです

 

「中川 ひろたか」は「1,954年生まれ」の「日本の絵本ライター」「シンガーソングライター」

  だ、そうです。

「1,973年」に「上智大学・法学部」に「入学」し「3年生の時」「中退した」そうです。

「1,976年・4月」「家庭保育園」の「用務員」として「就職した」そうです。

 

「1,979年」「初の著書」「あそびうたがいっぱい」を「刊行」し「全国の保育園」に

「広まった」そうです。

「1,994年」「こどもチャレンジ・ポケット」で「絵本作家デヴュー」した、そうです。

 

「さつまのおいも」は「書籍化」され「3ヶ月間」で「1万5,000部」が「売れる」

「大ヒット」と、なったそうです。

「作品」は「小学校の」「国語・音楽」の「教科書」に「採用された」そうです。

 

「1,979年」「バンド」「こどもどあーず」を「結成し」「歌手活動」を「開始した」そうです。

「2,011年・4月」「東日本大震災復興支援」として「みんなともだちプロジェクト」を

「立ち上げ」「社会支援」を、したそうです。

 

「テレビ出演」と、しては

 

・「「ワンツー・どん」(「NHKEテレ」)

 

・「ひらけ!ポンキッキ」(「フジテレビ系」)

 

・「ポンキッキーズ」(「フジテレビ系」)

 

・「題名のない音楽会」(「テレビ朝日系」)

 

・「いっぽ!」(「テレビ東京開始系」)

 

   が、あるそうです。

 

 

「藤本 ともひこ・中川 ひろたか」「へのかっぱ」

「作詞」:「藤本 ともひこ」「作曲」:「中川 ひろたか」

 

はらへった  めしくった

たまげった  へのかっぱ

わらうとまけよ  じゃんけんぽん

いちふじ  にたか  さんなすび

おしょうゆかけて  いただきます

むしゃむしゃ  むしゃむしゃむしゃ

 

いしけった  なんてこった

ころげった  へのかっぱ

わらうとまけよ  じゃんけんぽん

いちふじ  にたか  さんなすび

ケチャップかけたら  いただけない

うしゃうしゃ  うしゃうしゃうしゃ

 

はらへった  めしくった

たまげった  へのかっぱ

わらうとまけよ  じゃんけんぽん

いちふじ  にたか  さんなすび

おしょうゆかけて  いただきます

むしゃむしゃ  むしゃむしゃむしゃ

 

 

 

「2,019・7・26」(金)

 

「2,019・6・12」に

  私は「師匠」から「1軍の稚魚・25匹」「2軍の稚魚・5匹・」「3軍の稚魚・35匹」

「計・65匹」を「譲ってもらい」ました。

 

「2軍・3軍の稚魚・40匹」は「田村さんの池で「飼育してもらって」います。

  (「池の水替え」は「私がやっています)

 

「将来性が高い」「1軍の稚魚・25匹」は「家の2階のベランダ」で「飼育して」いました。

プランター」で「作った水槽」で「1個の水槽当たり・5匹」「5個の水槽」

「他に」「水替え用の水槽・5個」「計・10個の水槽」で「飼育して」いました。

 

「当日」は「ワインを飲みながら」「明け方」に「ブログを書き終わり」そのまま、寝ました。

「昼近くに目覚め」「金魚を見回り」ました。

 

  すると「1個の水槽の金魚・5匹」が「死んで」いました。

「死後数時間経っており」「体は硬直して」いました。

「水槽の水は」は「腐って」いました。

「阿鼻叫喚 (あびきょうかん) の世界」を「見ている」気が、しました。

 

「金魚の大きさ」は「約5cm位」で「丸々と」太って、いました。

「1軍の金魚だけ」あって「背中」は「拓殖の櫛」(つげのくし)の様に「綺麗な放物線」を

「描いて」いました。

「尻尾は」「180度開いて」いました。

「らんちゅうの特徴」である「頭のコブ」は「もう少し大きくならない」と、出ません。

 

私が「手塩にかけて育ててきた」「金魚」です。

私は「夢を見ているのかと」すぐには「現実を受け止めることが」出来ません」でした。

私は「ベランダの水槽」で「この様な光景を見た事」が、有りませんでした。

しかし、しばらくして「間違いなく現実」だと「我を取り戻し」ました。

 

「私の不運」は「何時も」「いくつかの偶然」が「ダメを押すように重なった時」に、

「必ず起き」ます。

 

・「昨夜、エサやりに行った時」「水槽の水」は「既に替え時」だったにも「拘らず」

   「直ぐに実行せず」「明日へと」「先延ばしして」しまった事。

     (「水替え用の水槽」の「準備は出来て」おり「1分もあれば」

   「 金魚を移し替える事」が「可能」でした)

 

・「昨夜、エサやりに行った時」「エアーホース」に「つまづいた勢い」で

   「エアーポンプ」から「エアーホース」が「外れ」「水槽に酸素に届いていない事」を

   「見逃して」しまった事。

     (「酸素さえ」あれば「極度の水質の悪化」は「起きません」でした。

 

・「新鮮な水」「酸素の供給」の「いずれかが、為されていれば」

   『「悲劇的で「悲惨な」結末」』(「トラジックエンド」) は

   「起こらなかった」と、思っています。

 

  「特に」「直ぐに実行」を「モットー」に、しているだけに「たとえ酔っていたとしても」

  「水替えを先延ばしにした事」に「自責の念」を「禁じ得」ません。

 

「普段から」「軽微なミス」を、しても「神様」は「笑って許して」くれましたが

  さすがに「同時に2つの重要なミスを重ねては」「神様」は「許しては」くれませんでした。

 

  しかし「今の私」は「昔とは」「一味」「違い」ます。

   私は「多くの経験」を「積んで」来ました。

「失意のどん底」から「這い上がる事」など「お安い御用」(おやすいごよう) です。

 

「5匹の金魚が死んだ」という「ネガティヴな気持ち」を

『「まだ「20匹も生き残っている」』と「ポジティブな気持」に「切り替え」ました。

「5匹の金魚の死」など「今の私」に、とっては「へのかっぱ」です。

  私は「負け」ません。

 

 

ZARD」は「負けないで」という「歌」を、歌いました。

「負けないで」は「人生の応援ソング」・「スポーツの応援ソング」の

「上位にランクイン」しています。

「聞いている人に」「希望」と「勇気」を、与え「励まし」ます。

 

 

ZARD」(ザード) は「1,991年」「坂井 泉水」(さかい いずみ) を、中心に「結成され」た

「音楽ユニット」です。

「坂井 泉水」は「1,990年代」に「女性ソロアーティスト」として

「最も多くのCDを売り上げた歌手」です。

   私は「ZARD」の「他のメンバーの事」は「知り」ません。

 

「坂井 泉水」は「1,967年・2月生まれ」です。

「20歳代前半」まで「モデル」や「レースクイーン」として「活動して」いました。

「歌手になりたいという」「希望を捨てきれず」「自身が結成したユニット」「ZARD」の

「ヴォーカル」として「歌手デヴュー」しました。

 

「坂井 泉水」は「極度の・あがり症」だった為「ほとんど」「マスメディア」に

「登場」せず「ライブ」も、ほとんど、行いませんでした。

 

「2,000年以降」「子宮筋腫」「卵巣膿腫」「子宮内膜症」と「次々に」「罹患」しました。

「2,006年・4月」「子宮頸癌」(しきゅうけいがん) を「発症」しました。

「同年・6月」「卵巣の摘出手術」を「受け」「7月」に「退院」しました。

 

「2,007年」「ガン」が「肺」へ「転移」し「再入院」しました。

「同年・5月」「入院先の病院」で「3メートルの高さの階段」から「落下」し「後頭部」を

「強打し」「脳挫傷」(のうざしょう) の為「40歳で死去」しました。

 

「東京」と「大阪」に「設置された献花台」には「約1万人」が「記帳」「献花」に

「訪れ」ました。

「美人薄命」と、言われました。

 

 

 

ZARD「負けないで」「作詞」:「坂井 泉水」「作曲」:「織田 哲郎」

 

ふとした時間に  視線がぶつかる

幸福 (しあわせ) の ときめき  覚えているでしょ

パステルカラーの  季節に恋した

あの日のように  輝いてる  あなたでいてね

 

負けないで  もう少し

最後まで  走り抜けて

どんなに  離れてても

心は  そばにいるわ

追いかけて  遥かな夢を (はるかなゆめを)

 

何が起きたって  ヘッチャラな顔して

どうにかなるサと  おどけてみせるの

“今宵 (こよい) は私 (わたくし) と一緒に 踊りましょ”

今も  そんなあなたが好きよ  忘れないで

 

負けないで  ほらそこに

ゴールは 近づいてる

どんなに  離れてても

心は  そばにいるわ

感じてね  見つめる瞳

 

負けないで  もう少し

最後まで  走り抜けて

どんなに  離れてても

心は  そばにいるわ

追いかけて  遥かな夢を

 

 

負けないで  ほらそこに

ゴールは  近づいてる

どんなに  離れてても

心は  そばにいるわ

感じてね  見つめる瞳

 

 

「へのかっぱ」を「英語」で「言う」と

 

「I don't think anything of it」

 

  (「なんとも思わない」)

 

  と、言うそうです。