何気なく使っている言葉の意味

「やってみせ」

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「言って聞かせて」

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「させてみて」

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「ほめてやらねば」

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「人は動かじ」

 

(「山本 五十六」(やまもと いそろく)「言」)        「人材育成の哲学」

 

1.「やってみせる」

 

「人に物を教える時」には、まず「自分が手本となって」「相手に見せる事」が「大切」です。

  しかし「実際」には」「これを省く人が多い」と「言われて」います。

「何故なら」「あえて見せるのが面倒くさい」「一々見せなくても」「わかるでしょ」的な

「考え方の人」が「多いから」と「言われて」います。

 

「中には」「本来、しっかりと教育すべき立場」に、いるのに「相手を軽んじているが故」

「適当にあしらう人」も、いるそうです。

「ごくまれに」に「見せたくても」「自分も分からない」から「見せようが無い」という

「ケース」も「有る」そうです。

 

「忙しい事を理由」に

  いくら「マニュアル」を「読ませても」「具体的なイメージ」が「認められ」なければ

「完璧な理解」には「至り」ません。

 

「誰も」が、持つ「五感」の内「最も情報」を「インプット」するのは「視覚」だと

「言われて」います。

「実際の様子」を「見せる事」に、より「相手」が「間違った方向」に「進んで」しまったり

「勘違いする事」無く「スピーディー」に「物事」を「理解させる事」が「可能」に、なります。

 

「子は親の背中を見て育つ」という「ことわざ」が、有ります。

「同じ様」に「部下は上司の背中を見て」育ちます。

「親の背中」「上司の背中」には「責任感」が「詰まっていなければならない」と

   私は、思っています。

 

 

2.「言って聞かせる」

 

「やってみせた後」は「やってみせた事の意味」を「しっかりと説明して」「聞かせる事」が

「重要」です。

  たとえ「手本を見せ」ても「やった事の意味」が「上手く伝わっている」とは「限り」ません。

 

「テレビドラマ」で「職人が弟子」に「見て覚えろ」と「言うシーン」が有ります。

 しかし「教わる側」に「正しく伝わる保証」は、有りません。

「無駄な時間」を「費やしかね」ません。

 

「言って聞かせる」とは「理解させる事」を「意味」しています。

「親」「上司」には「最後までフォロー」する「義務」が「有る」と、私は思います。

「知識」とか「技術」は「共有すべき」だと、私は思います

 

 

3.「させてみる」

 

「見せて・言って聞かせた」後は「相手に実践させる事」が「大切」です。

「ここまでは」「机上の空論」でした。

 

「見せて・言って聞かせた」後は「相手がどれだけ理解してくれているか」を「確認する事」が

「大切」です。

「人によって」「理解度」「解釈の仕方」は「千差万別」です。

 

「何もそこまで付き合わなく」ても「いいじゃないか」・「後は個人の問題だ」「ほっとけ」

  という「考え方」が「一般的」かも、しれません。

  しかし、「教えるからには」「徹底して最後まで」「やり切る」事が「相手に対する敬意」だと

「教えている」気が、します。

 

 

4.「ほめてやる」

 

「失礼な言い方」に、なりますが

「豚もおだてりゃ木に登る」という「ことわざ」が「有り」ます。

「認めてもらう」=「肯定される」=「ほめてもらう」と「嬉しくて」「自信を持ち」

「前向きな気持ち」に、なり「能力以上の事」が「出来るよう」に「なる事」も、有ります。

 

「怒ったり」「しかったり」して「後ろ向きな気持ち」に、させてしまう事と「比較した場合」

「相手が出す結果」には「月とスッポンほどの差」=「雲泥の差」(うんでいのさ) が

「生じるはず」です。

 

  私が「支店を回っていた頃」「褒められるより」「厳しくされた方が嬉しい」と

「答えた人は」「たった1人」しか、いませんでした。

「褒められる事」に「飢えている人達」が「ほとんど」の、ような、気がします。

 

 

5.「人を動かす」

 

「上記のステップ」を、踏み「相手」と「理解・信頼関係」が「築けた」ならば

「やるべき事はやり尽くした」と「考えても良い」気が、します。

「自分について来てくれる人」が「出来た」と「考えてもいい」かも「知れ」ません。

「あなた」が「窮地に立たされた時」「応援団」として「かけつけてくれる」かもしれません。

 

「親・子」「上司・部下」の「信頼関係」は「一朝一夕」にて「成り立つ物では無い」と

「今の私」は「思って」います。

私の背中」を見て「育った」「4人の子供達」「僅かばかりの部下」には

「申し訳なかった」と「心から詫びて」います。

 

「山本 五十六」は「1,984年」(「明治・18年」生まれ) の「海軍・職業軍人」です。

「最終階級」は「元帥(げんすい)・海軍大将」でした。

 

「父親」が「56歳の時に生まれた」事より「五十六」(いそろく)と「命名」されました。

「旧制中学校卒業後」「職業軍人」(武士」を「目指し」「海軍兵学校」に「入隊」しました。

「1,919年」(「大正・8年」) に「アメリカ」の「ハーバード大学」に「留学」しました。

   

「山本 五十六」は「第二次世界大戦」に「強硬に反対した人物」として「有名」です。

「数度の渡米」に、より「日・米」の「軍事力」に「乖離(かいり) が有る」事に

「気付いていた」の、かも「知れ」ません。

 

「1,941年」「山本 五十六」は「連合艦隊・司令長官」の「地位」に、いました。

「1,941・12・8」「日本」は「3国同盟」(「日・独・伊」) の「締結の元」

「ハワイ・真珠湾奇襲攻撃」に、より「アメリカ」と「イギリス」に

「宣戦布告」しました。

 

「1,943年」「日本軍の暗号」を「解読した米軍」は「山本 五十六を殺せば」「日本の士気」が

「下がるだろう」との「思惑」で「山本 五十六」の「指揮する艦隊」を「米軍の航空部隊」が

「一斉に襲い掛かり」「山本 五十六」は「射殺」されました。

「不沈艦」と、言われた「大和」(やまと)「武蔵」(むさし)も「海の藻屑」(うみのもくず) と

   なりました。

 

「海」(戦艦) に「こだわった・日本」は「空」(航空機) を「優先」させた「米軍の発想」に

「敗れ去り」ました。

   そして「終戦」(「1,945・8・15」) を「迎え」ました。

 

 

「増位山  太志郎」(ますいやま  だいしろう) は「男の背中」という「歌」を、歌いました。

 

「増位山  太志郎」は「1,948年生まれ」の「歌手」「元・力士」です。

「7代目・増位山」(大関) の「長男」として「生まれ」ました。

日大一中・高校」の「頃」は「水泳部」に「所属」し「インターハイ」にも「出場」しました。

 

「1,967年」「周囲の反対を押し切り」「父親が親方を務める「三保ヶ関部屋」に

「入門」しました。

「1,968年」「父」の「四股名」(しこな)「増位山」(ますいやま) を「継ぎ」ました。

 

「身長」「182cm」「体重」「116cm」の「均整の取れた体」でした。

「小兵」(こひょう) ながら「多彩な技」で

「1,958年」「史上最年長」の「31歳2ヶ月」で「大関」に「昇進」しました。

「1,981年」「ケガ」により「現役引退」し「親方」として「父の跡」を「継ぎ」ました。

 

「師匠である父親」から

『「相撲だけ」やっていては「人間に幅と奥行き」が「出てこない」』

『「何でもいい」から「やってみろ」と「アドレス」されました。

「1,972年」「現役力士」の時「いろは恋歌」で「歌手デヴュー」しました。

 

「1,974年」「3枚目」の「シングル」「そんな夕子にほれました」が「120万枚」を、超える

「大ヒット」に、なりました。

「1,977年」に「発売」した「そんな女のひとりごと」は「実に」「130万枚」を超える

「大ヒット」に、なりました。

 

「1,976年」に「おゆき」を「歌い」「大ヒット」した「将棋」の

「内藤 国雄」「元棋聖・王位」と、共に「異色歌手」と「言われ」ました。

 

「いつ発売されたのか」「いくら調べても」「分かり」ません。

「男の背中」が「大ヒットしました、

「増位山」の「歌」の中で「よく歌われるカラオケランキング」NO・1」だ、そうです。

 

 

増位山 太志郎」「男の背中」「作詞」:「中山 大三郎」「作曲」:「中山 大三郎」

 

男の肩と  背中には

むかしの影が  ゆれている

恋も  涙も  悲しみも

だれにも言えない  傷あとも

ゆら ゆらゆら  とまり木ゆれて

グラスの底に  明日(あす)をみる

おまえはそんな  男の姿

気付かないけど

 

男の胸の  おくのおく

そのときどきの  夢がある

過去も  未来も  ぼんやりと

忘れてしまう  ときがある

ゆら ゆらゆら  タバコのけむり

見つめて愛に  ゆれながら

おまえのあまい  かおりの中で

休む日もある

 

ゆら ゆらゆら  止まり木ゆれて

グラスの底に  明日をみる

おまえはそんな  男の姿

気付かないけど

 

 

※「杓子定規」(しゃくしじょうぎ)

 

「2019・7・31」「9:30」

  私の「ハローワーク」での「面接予定日・時間」でした。

  私は「前回の面接時」(「7月3日」) に「次回の面接日」を「指定」されました。

 

「以後」「この日程」を「強く意識して」きました。

「ケータイ」には「「1日前」と「2時間前」に「通知」するよう「登録」しました。

  まさか「予定日」を「忘れてしまう」とは「夢にも思いません」でした。

 

  私の「ケータイ」には「頼んでもいない」にも「拘わらず」「ヤフー」から

「いろいろなメッセージ」が「入って」きます。

  私は「テレビドラマ」を「見ている時」・「ブログ」を「書いている時」に、入ってくる

「メール」を「内容を確認しない」まま「消去」してしまう「習慣」が、出来てしまいました。

 

  私は「テレビのコマーシャル」の「時間」・「ブログ」を「書いている」「時間」には

「ケータイ」で「歌」を「聞いて」います。

「メッセージ」は「邪魔」です。

「1日前」に「通知するよう設定」した「メッセージ」は「無意識のうち」に

「観ること」なく「削除してしまった」と、思われます。

 

「当日」「ブログ」の「キリが悪い」にも「拘わらず」「早め」に「寝」ました。

「ワイン」の、せいで「グッスリ」「寝て」しまいました。

「目覚めた時」は「11時」でした。

 

  私は「2時間前」にも「通知する様」「設定して」有りました。

「ケータイ」の「待受画面」に「表示されていた通知」を「見て」

   私は「唖然として」しまいました。

ハローワーク」での「面接時間」は「過ぎて」いました。

 

ハローワーク」に「到着する」までの「所要時間」は「約1時間」です。

「金魚のエサやり」も、せず「忘れ物が無いか」だけ「確認」し「出発」しました。

「言い訳」は「嫌い」なので「電話」は、しませんでした。

 

「最初の説明会」で「面接日に来なかった人」には「失業保険金」は「支給しない」と

「クギを刺されて」いました。

「遅刻した場合」の「説明」は「有り」ませんでした。

ハローワーク」が「杓子定規 (しゃくしじょうぎ) な組織」で「無いこと」を「祈り」

  私は「松山千春」の「歌」を、歌いながら「急行」しました。

 

「現地に着いた時」は「12時・39分」でした。

「館内に入る」と「受付の女性」が「私の顔」を「見て」「ニヤリ」と「笑い」ました。

   私は「素直」に「遅刻した事」を「詫び」ました。

 

「女性」は「今日中なら大丈夫ですよ」と「優しく」「返事してくれ」ました。

  私は「何とか」「今月分」の「失業保険金」を「確保する事」が、出来ました。

「今の私」に、とっては「貴重な収入」です。

 

  私が、為した「あまたの遅刻」の、中で「最大の遅刻」は

「就職活動」での「遅刻」だったと「思い」ます。

  私は「第一志望の会社」の「面接時間」に「寝坊」して「遅刻して」しまいました。

「念の為」「遅ればせながら」「会社に行きました」が「面接を拒否され」ました。

 

  私が「就職活動」した時は「第二次オイルショック」の「真っ只中」でした。

「翌年」には「景気が回復」し「多くの人」が「退職」し「希望の会社」に

「転職」しました。

 

 「止むを得ず」 私は「二次志望の会社」の「面接試験」を「受け」ました。

「面接官」に「志望動機」を「聞かれた」ので「上記の遅刻の話」を

「ありのまま」に、しました。

「一時志望の会社」に「断られた」ので「御社を志望します」と「答え」ました。

 

  私は「大学4年間」に「4日」しか「授業に出席せず」「レポート」だけで「卒業」しました。

「成績」は「優・良・可」の、内の「最低ランク」の「可」でした。

「当然」「面接時のテクニック」など「教わって」いませんでした。

  しばらく「内定」の「連絡が無く」「あきらめて」「次の就職先を探す」

「準備をしていた矢先」「内定の返事」が「有り」ました。

 

「鶏口となるも牛後となるなかれ」(けいこうとなるも ぎゅうごとなるなかれ) という

「ことわざ」が、有ります。

  私は「社会人生活」を「牛後」(「牛の尻) から「スタート」しました。

 

 

「杓子定規」(しゃくしじょうぎ)の「意味」は

 

「一定の基準をすべてにあてはめる」事。

 

「一つのの基準を以ってすべてを決めようとする」事。

 

「形式にとらわれ応用や融通がきかない」事。

 

  だ、そうです。

 

 

「杓子定規」の「類義語」と、しては

 

「柔軟性がない」

 

「融通がきかない」

 

「応用がきかない」

 

「クソ真面目な」

 

頑固一徹な」(がんこいってつな)

 

「頭が固い」

 

「石頭な」

 

「固定的な」

 

「堅物の」

 

辺りが「相当」する、そうです。

 

 

「杓子定規」の「対義語」と、しては

 

「マニュアルにとらわれない」

 

「規則にとらわれない」

 

「応用が効く」

 

臨機応変

 

「柔軟な対応」

 

「こだわりがない」

 

「自由にのびのびと」

 

辺りが「相当」するそうです。

 

 

青い三角定規」は「太陽がくれた季節」という「歌」を、歌いました。

 

青い三角定規」は「1,971年」に「「3人で結成」された「フォークグループ」でそ。

「ヴォーカル」を「務めたのは「西口 久美子」でした。

「1,973年」に「解散」しました。

 

「1,972年」「日本テレビ系で放送」された「青春ドラマ」「飛び出せ青春」の

「主題歌」「太陽がくれた季節」が「売り上げ」「100万枚を超える」「大ヒット」に

  なりました。

「同年」に「レコード大賞・新人賞」を「受賞」しました。

「同年」「第23回・NHK紅白歌合戦」に「白組」で「初出場」しました。

 

 

青い三角定規」「太陽がくれた季節」「作詞」:「山川  啓介」「作曲」:「いずみ  たく」

 

君は何を今  見つめているの

若い悲しみに  濡れた眸(ひとみ) で

にげていゆく白い鳩  それとも愛

君も今日からは

ぼくらの仲間

とびだそう  青空の下へ

 

君は何を今  待ちつづけるの

街の片すみで  ひざをかかえて

とどかない  あの手紙  別れた夢

君も今日からは

ぼくらの仲間

とび込もう  青春の海へ

 

青春は太陽が  くれた季節

君も今日からは  ぼくらの仲間

燃やそうよ

二度とない日々を・・・

燃やそうよ

二度とない日々を・・・

 

 

「山本 五十六」「やってみせ」を「英語」で

 

「yamamoton  56   Try  it 」

 

  と、言うそうです。