何気なく使っている言葉の意味

急がば回れ

 

「皆さん」は「急がば回れ(「いそがばまわれ」) という「ことわざ」を

「使った事」は「有り」ませんか?。

 

急がば回れ」の「意味」は

 

・「回り道を選ぶ」からといって「のんびりと行く」いう「意味に・捉えては」いけません。

 

・「急ぎで物事を行う時」「合理的」で「無駄のない・効率的なやり方」は「不可欠」ですが

   「急ぐあまり手順を変えて・失敗したり」「やり方を間違えたり」して、かえって

   「無駄な作業を・生みかね」ません。

 

・「たとえ」「急いでいて・時間が無くても」「丁寧で・確実な方法」の、方が

     「かえって・無駄を省き」「余裕を持って」「効率良く行うこと」が

    「出来る事」が「有り」ます。

 

・「急ぐから」と、いって「危険」で「何があるか」「わからない」「近道」を「選ぶより」は

   「遠いけど・確実にたどりつく」事の、できる「回り道」を

   「選ぶ方が・賢明」だったと「思う事」が「有る」かも「知れ」ません。

 

・「急いで・物事を成し遂げようとする時」は「危険を含む・近道を行く」よりも

     「安全確実lな・遠回り」を「行く方」が「かえって得策だ」と、いう事を「経験した事」が

     「有り」ませんか。

 

・「急ぐから」と、いって「慣れない近道」を「通れ」ば「道に迷う」などして

   「かえって・時間が・かかった」と、いう「経験」を「経験した事」は「有り」ませんか。

 

・「急ぐから」と、いって「いい加減な事」を「やっている」と

   「失敗」して「一から出直し」「結局・余計に時間が掛かった」という

    「経験をした事」が「有り」ませんか。

 

 

急がば回れ」の「同義語」と、しては

 

・「急いては事を仕損じる」(「せいてはことをしそんじる」)

 

・「慌てる乞食は貰いが少ない」(「あわてるこじきはもらいがすくない」)

 

    等が「妥当」だ、そうです。

 

 

急がば回れ」の「対義語」と、しては

 

・「急がねば事が間に合わぬ」

 

・「巧遅は拙速に如かず」(「こうちはせっそくにしかず」)

    (「出来は悪くとも、遅いよりはいい」)

 

  等が「妥当」だ、そうです。

 

 

 

「琴風 豪規」(「ことかぜ ごうき」) は「まわり道」という「歌」を、歌いました。

 

「琴風 豪規」は「1957年・生まれ」の「元・大相撲力士」「演歌歌手」です。

「現役力士の時」の・体格」は「身長・183cm」「体重・173kg」でした。

「愛称」は「ペコちゃん」で「何時も」「細い目」で「ニコニコ」「笑って」いました。

「中学生時代」の「成績は優秀」で「体育‘・以外」は「オール・5」でした。

 

大関琴桜」(「後に、横綱に昇進」) に「可愛がられ」「琴桜」が「引退」し

佐渡ヶ嶽部屋」を「継承したのを機」に「入門」しました。

「1,971年」に「初土俵を・踏み」ました。

「1,975年」「新十両」「1,977年」「新入幕」と「順調に・出世」しました。

 

「1,977年」「横綱北の湖」から「金星」を「挙げる」など「10勝・5敗」で

「初の三賞」と、なる「殊勲賞」を「獲得」しました。

「1,978年」「関脇」に「昇進」し「大関・候補」と「目され」ました。

 

「同年」「2回の・左膝の怪我」に、より「休場が続き」

「幕下・30枚目」まで「陥落」しました。

  それでも「腐らず」「失意のドン底」から「リハビリ」で「ケガを治す」と

「幕下・2場所」「十両1場所」で「通過」し「1980年」に「幕内・復帰」と

「這い上がって」きました。

 

「関係者」は「琴風」の「凄まじい・執念」に「舌を巻き」ました。

「その場所」で「12勝・3敗」の「成績を・挙げ」「敢闘賞」を「獲得」しました。

「翌場所」も「10勝・5敗」で「2場所・連続」して「敢闘賞」を「受賞」しました。

 

「翌場所」に「関脇に・復帰」し「10勝・5敗」で「殊勲賞」を「獲得」し

「再び・大関候補」に「のし上がり」ました。

  しかし「翌場所」「3回目の・左膝の・大怪我」で「途中休場」しました。

 

「春日野理事長」が「今度こそ・ダメだろう」と「言った程」の「大ケガ」でした。

「琴風」は「今回も・不運にめげず」「膝にメスを入れ」「ケガの克服」に「努力」しました。

「1,981年」「3月場所」「関脇に・復帰」し「3場所続け」て「好成績」を「残し」ました。

「同年・9月場所」で「大関」に「昇進」しました。

 

「琴風」は「大関昇進の・翌年」1,882年・12月」「回り道」で「歌手・デヴュー」しました。

「琴風」の「これまでの・頑張り」が「曲名」「歌詞」に

「オーバーラップ」し「人々に・感動」を「与え」「大ヒット」しました。

「石川 さゆり」との「デュエット曲」「東京めぐり愛」も「大ヒット」しました。

 

「大相撲力士」の「歌手デビュー」」を「最初に成した」のは「当時・大関」で、後に

横綱」になった「北の富士 勝昭」だったと「記憶して」います。

「1,967年」「ネオン無情」を「発売」しました。

 

「二人目」は「当時・平幕」で、後に「大関」になった「増位山 太志郎」です。

「1,972年」「いろは恋歌」で「デヴュー」しました。

「そんな夕子にほれました」「男の背中」等「多くの・ヒット曲」を「排出」しました。

 

「琴風」は「1985年」「無傷の・右膝」を「怪我した」ことより

「2場所連続・休場」し「大関からの・陥落」が「確定した」事を「契機」に

「28歳の・若さ」で「引退」しました。

「引退後」は「頭の良さ」を「生かし」「相撲解説」も「上手」でした。

 

 

 

「琴風 豪規」「回り道」「作詞」:「なかにし 礼」「作曲」:「三木 たかし」

 

桜の  花のような

小雪が  ふりかかる

お前の  おくれ髪を(「おくれげ」)

この手で  なでつける

回り道を  したけれど

めぐり逢えたら  いいさ  いいさ

遅れて  やって来た

二人の春に  乾杯を  あ・・

 

川辺で  子供たちが

無邪気に  遊んでる

お前は  それを見て

かすかに  涙ぐむ

回り道を  したけれど

夢が叶えば  いいさ  いいさ

苦労の分  だけは

お前もなれよ  幸せに  あ・・

 

回り道を  したけれど

これが最後の  恋さ  恋さ

二人で  あたたかな

ねぐらを  きっと つくろうよ  あ・・

 

 

※「台風・15号」

 

 

「風速・50m」(「秒速・50m」) の「強烈な・台風」に「見舞われ」ました。

  私は「家周り」に「散乱した」「小枝」「葉」「何処からか飛んで来た・ゴミ」を「掃除後」

「自然薯の・栽培現場」へ「急行」しました。

「停電」の為「信号機の・半分位」は「点灯して」いませんでした。

 

「圃場」(「ほじょう」は「物の見事」に「崩壊して」いました。

「芋掘り棒」で「穴を掘り・立てた」「太い竹」は「全て・倒れて」いました。

「ツルを上に伸ばす」為に「斜め上向き」に「設置した・竹」は「落ちて」いました。

「強風」が「海水を・運んで来た?」のか「葉がしおれ・垂れて」いました。

 

「不器用な・私」が「作った」「簡易な・施設」は「風速・50m」の「風」に

「木っ端微塵」(「こっぱみじん」)に「砕け散り」ました。

「復旧する事」は「不可能」です。

  私は「期待が・すぼんでいく」のを「食い止め」ようと「必死」でした。

 

戦争と平和」を、書いた「ロシアの・小説家」「トルストイ」が「書いた・小説の題名」

「復活」を「思い出し」ました。

「ツル」さえ「シッカリ」していれば「何とかなる」と「前向き」に「考え」ました。

 

  私は「奇跡が起き」「復活する事」に「一縷の希望」(「いちるのきぼう」)を

「繋ぐ事」に「決め」ました。

「諦めなければ・終わる事はない」と、いう「言葉」は「テレビドラマ」に

「よく出てくる」「言葉」です。

 

「私にできる事」は「何も無い」ので「心穏やかに」「11月・末」を「迎え」ます。

「絶望的な気持ち」で「その日を迎える」より「精神的ダメージ」が「少なく」

「他の事」にも「悪影響」を「もたらさない」と「思って」います。

 

 

  私は「支店を回っていた頃」「何人か」に「質問した事」が、有りました。

『私が「スーパーマン」に、なって「空から」「貴方は、テキジャナイ」と

「言った」ら「貴方」は「どの様」に「受け止め」ますか?』と。

「意味不明」なのか「答えた人はいなかった」ので、私は「以下の様」に「説明」しました。

 

1・「テキジャナイ」とは「敵じゃない」「すなわち」「味方」で、ある事。

 

2・「テキジャナイ」とは「敵じゃない」「すなわち」「相手にもならない」事。

 

3・「テキジャナイ」とは「適じゃない」「すなわち」「否」(「間違い」」で、ある事。

 

4・「テキジャナイ」とは「的じゃない」「すなわち」「的外れ」(「まとはずれ」) で、ある事。

 

5・「テキジャナイ」とは「滴じゃない」「すなわち」「滴」=「雫・しずく」) では、無い事。

 

 「貴方」は「しずくの様」に「ぽたぽたと垂れる」「情けない・人間」では無く

「嵐の様な雨」を「降らす・人間」に「なれる・素質が有る」と「言ったつもり」でした。

  しかし「仕事の合間の・短い時間」に「言った話し」なので「私の・言葉の真意」を

「分かってくれた」との「自信」は「有り」ません。

 

 

「石原 裕次郎」は「嵐を呼ぶ男」と、いう「歌」を、歌いました。

 

「石原 裕次郎」は「1,934年・12月生まれ」の

「俳優」「歌手」モデル」「司会者」「実業家」でした。

 

「妻」は「石原プロモーション」の「代表取締役」の

「石原 まき子」(「元・女優」) の「北原 三枝」) です。

「石原・夫妻」は「超」の、付く「おしどり夫婦」でした。

 

「兄」は「前・東京都知事」で「芥川賞・作家」の「石原 慎太郎」です。

「甥」(「おい」)  は「石原 伸晃」(「政治家」)「石原 良純」(「俳優」「タレント」) です。

 

「石原 裕次郎」は「1,956年」「兄・慎太郎」の「芥川賞・受賞作」「太陽の季節」で

「映画・デヴュー」しました。

慶應義塾大学を・中退」し「兄の原作」で「映画化」された「狂った果実」で

「当時・人気絶頂」で「後に・妻」と、なる「北原 三枝」と「共演」しました。

 

「主演映画」が「連続・ヒット」し「瞬く間」(「またたくま」) に

「昭和を代表する・日本最高のスター」の「一人」と、なりました。

「1,963年」に「渡 哲也」「舘 ひろし」「神田 正輝」等を「従え」「石原プロモーション」を

「設立」し「太陽にほえろ」「大都会」などの「テレビドラマ」で「活躍」しました。

 

「2,000年」に「発表」された「20世紀の映画スター・男優編」で・第2位」に、なりました。

「石原 裕次郎」の「性格」は「体育会系」で

・「困った事が起きる」と「自ら率先して動く・タイプ」でした。

・「人の悪口は・絶地に言うな」「人にしてあげた事は・すぐに忘れろ」

・「人にしてもらった事」は「一生・忘れるな」と、いう「ポリシー」を「持って」いました。

 

「気遣いのできる・優しい性格」と「豪快な人柄」から

石原プロモーション」に「所属する俳優」は「もちろん」「西部警察」で「共演」した

「三浦 友和」「柴 俊夫」達、からも「石原社長」と「呼ばれ」「慕われ」ました。

「チェーン・スモーカー」で「休暇中」は「朝から・ビール」を「飲んで」いました。

 

「歌手」と、しては「銀座の恋の物語」「二人の世界」「夜霧よ今夜も有難う」等の

「大ヒット曲」が、あるものの「紅白・歌合戦」には「一度も・出場」しませんでした。

「1,987年」「肝臓ガン」により「逝去」しました。

「享年」「53歳」でした。

 

「墓碑」には「妻の・直筆」で「次のような言葉」が「綴られて」(「つづられて」) います。

「美しき者に微笑みを」「淋しき者に優しさを」「たくましき者に更に力を」

「全ての友に思い出を」「愛する者に永遠を」「心の夢醒める(「さめる」) 事無く」。

 

 

「石原 裕次郎」「嵐を呼ぶ男」「作詞」:井上 梅次」「作曲」:「大森 盛太郎」

 

俺ら(「おいら」)は  ドラマー  やくざなドラマー

俺らがおこれば  嵐を呼ぶぜ

喧嘩代わりに  ドラムを叩きゃ

恋のうわさも  ふっとぶぜ

 

『この野郎  かかって来い!

   最初は  ジャブだ・・ホラ  右パンチ・・

   おっと  左アッパー・・

   畜生、やりやがったな、倍にして  返すぜ

   フックだ、ボディだ、ボディだ、チンだ

   ええい面倒だい  この辺で  ノックアウトだ』

 

俺らは  ドラマー  浮気なドラマー

俺らがほれたら  嵐を呼ぶぜ

女抱きよせ  ドラムを叩きゃ

金はいらねぇ  オンの字さ

 

『この野郎、かかって来い!

   最初は  ジャブだ・・右パンチ・・

   おっと左  アッパー

   畜生、やりやがったな、倍にして  返すぜ

   フックだ、ボディだ、ボディだ、チンだ

   ええい面倒だい  この辺で  ノックアウトだ』

 

俺らはドラマー  やくざな  ドラマー

俺らが叩けば  嵐を呼ぶぜ

年がら年中  ドラムを叩きゃ

借金取りも  逃げて行く

 

 

急がば回れ」を「英語」で「言う」と

 

「Slow and steady win the race」

 

  (「ゆっくりと着実な者が・競争に勝つ」)

 

  と「言う」そうです。