何気なく使っている言葉の意味

「虫の知らせ」

 

「皆さん」は「虫の知らせ」という「ことわざ」を「使った」事が、有りませんか?。

 

「虫の知らせ」の、意味は

 

『「良くない事」が「起こる」と「感じること」』

 

です。

 

「虫の知らせ」の「「類義語」と、しては

 

・「予感」

      (「事が起きる前」に「あらかじめ」何となく「感じ取る」こと)

 

・「直感」

      (「直ち」に「物事の真相」を『「証拠」や「証明」なし』に「心で感じとる」こと)

 

・「胸騒ぎ」

       (「悪い予感」が、したり「不安」になり「心が穏やかでない」こと)

 

・「第六感」

      (「人の身体」に「元々備わって」いる「五感」意外にあると、される

       「物事を直感」する「感覚」・ 「インスピレーション」・「勘」・「霊感」)

 

   だ、そうです。

 

  私が「脳梗塞」を「発症した時」「普段とは違う行動」を、為したのは

「虫の知らせ」を「聞いたせい」なのかも、知れません。

 

「虫の知らせ」の「対義語」と、しては

 

・「幸先がいい」

     (「幸先」とは「何か物事を始める」に当たり、そのことが「上手くいきそう」な

      「予感」・「兆し」(きざし)  )

 

・「吉兆」(きっちょう)

     (「良い事」・「めでたい事」が/「起こる」「前ぶれ」

 

   だ、そうです。

 

「虫」の付く「ことわざ」は「たくさん」有ります

 

・「飛んで火に入る夏の虫」

     (「自ら進んで」「『「危険」」・「災難」に「飛び込んでいく」こと

     (「返り討ち」に、会うのが「一般的」)

 

・「一寸の虫にも五分の魂」(いっすんのむしにもごぶのたましい)

     (「一寸」(約「3.03cm」)しか無い「虫」でさえも「半分にあたる位」の「魂」を

   「秘めて」(ひめて)いる)

     (「人」は「誰でも」「その人なり」の「意地・根性」を持っているので「決して」

   「侮ったり」(あなどったり)「馬鹿にして」は、いけない)

 

・「獅子、身中の虫」(しし しんちゅうのむし)

    (「獅子の体内」に「寄生」して、ついには「獅子」を「死に至らせる」「虫」)

    (「組織などの内部」にいながら「害をなす者」・「恩を仇(あだ)で返す者」

 

・「苦虫を噛み潰したような」(にがむしをかみつぶしたような)

    (「苦虫」とは「噛んだ」ら「とてつもなく苦い」とされる「想像上の虫」のこと)

    (「極めて苦々しい顔つき」・「ひどく不機嫌そうな表情」のこと)

 

・「虫唾が走る」(むしずがはしる)

    (「虫酸」とは「胸がムカムカした時」に「胃から出てくる酸っぱい液」のこと)

    (「走る」とは「口に出てくる」こと)

    (「胸がムカムカする程」「不快でたまらない」こと)

 

  等々、です。

 

 

「第六感」(「直感力」) の「有る人」の「特徴」と、しては

 

・「素直」である

      (「物事」や「自分の心」に「まっすぐ」)

 

・「自分の軸」を持つ

      (「経験」から得た「自信」「自分に対する」「信頼」がある)

 

・「集中力」が「高い」

      (「集中」し「雑念」が、無くなると「思わぬ気づき」を得「実力以上の」の「力」を

       「発揮出来る事」が、有る )

 

・「偶然」を「見逃さ」ない

      (「テレビドラマ」などで「自分に関連した事」を「都合よく解決した事」に

   「素直に従う」)

 

・「感謝」を「忘れない」

     (「日常生活」の中に「喜び」「有り難さ」を「見つける」)

 

・「人の気持ち」を「察する」

     (「相手が言葉」に、出さなくても「思っている事」「感じている事」が「分かる」)

 

・「危険を察知」出来る

     (「未来に起こる良くない事」を「感じ取り」「回避する行動」が「出来る」)

 

・「先入観」を「持たない」

     (「物事」を「ありのままに見」「様々な情報」を「客観的」に「整理出来る」)

 

・「些細な変化 (ささいなへんか)・違い」を「察知出来る」

     (「異常」を「外から見ただけで」で「診断」し「当てられる」

 

  等が、有るそうです。

 

 

 

  私が「30歳代半ば」(支店長代理) の頃「支店の皆で」「スナック」に「行った事」が

「何度も」有りました。

 

『「若く」「可愛く」「歌の上手」な「女性社員」が、いました。

「その人」は「荻野目 洋子」の「ダンシングヒーロー」を、初めとして

「多くの持ち歌」を、持っていました。

 

  しかし、私が「何時も」「リクエスト」したのは

テレサ・テン」の「別れの予感」でした。

「今になって考えて」みると「その人」は「イヤイヤ」「歌ってくれた」のかも、知れません。

 

「後で分かった話」ですが「その人」は「当時」「交際していた異性」が「居た」そうです。

「後に」「結婚」しました。

 

「当時」私に「繊細な神経」が有れば「年頃の女性」に「別れの予感」という

「不吉な曲」を「リクエスト」する事は「しなかった」と「反省」しています。

  私は「人の気持ち」に「無頓着」(むとんちゃく) でした。

 

「別れの予感」の「歌詞の中」には「もうすこし綺麗なら心配はしないけど」と

「歌う人」に対して「失礼な表現」も、有ります。

 

 

テレサ・テン」は「別れの予感」という「歌」を、歌いました。

 

テレサ・テン」は「1,953年生れ」の「台湾出身」の「歌手」です。

中華文化圏」「日本」「タイ」「マレーシア」等を、含めた「アジア」に、於いて

「広く人気を博し」「アジアの歌姫」と「呼ばれ」ました。

 

「1,974年」「21歳」の時「日本」での「歌手活動」を「開始」しました。

「デヴュー2作目」の「空港」が「大ヒット」し「第16回・日本レコード大賞・新人賞」を

「受賞」し「日本」でも「トップ歌手」の「仲間入り」を、しました。

 

「その後」も「香港」を「拠点」とし「アジア各地」を「行き来」する

「多忙な生活」を「送り」ました。

「1,979年」「政治的背景」により「テレサ・テン」は

「悪意は全くない」にも「拘らず」「国外退去処分」を「受けて」しまいました。

 

「1,984年」「日本の音楽ファン」の「強い要望」で「再来日」が「許可」されました。

「同年」「つぐない」で「再デヴュー」し「全日本有線放送大賞」を「受賞」しました。

「1,985年」「愛人」で「第36回・紅白歌合戦」に「初出場」しました。

「1,986年」「時の流れに身をまかせ」で「連続・紅白出場」を「果たし」ました。

「同年」「米・タイム紙」に、より『「世界7大歌手」の「1人」』に「選ばれ」ました。

 

「1,995・5・8」「静養」のため「訪れて」いた「タイ・チェンマイ」の「ホテル」で

「気管支炎」による「発作」で「死亡」しました。

「42歳」の「若さ」でした。

 

 

テレサ・テン」「別れの予感」「作詞」:「荒木 とよひさ」「作曲」:「三木 たかし」

 

泣き出してしまいそう  痛いほど好きだから

どこへも行かないで  息を止めてそばにいて

身体から この心  取り出してくれるなら

あなたに見せたいの  この胸の想いを

教えて 悲しくなる その理由 (わけ)

あなたに 触れていても

信じること それだけだから

海よりも まだ深く

空よりも まだ青く

あなたをこれ以上  愛することなんて

わたしには  出来ない

 

もうすこし綺麗なら  心配はしないけど

わたしのことだけを  見つめていて欲しいから

悲しさと引き換えに  このいのち出来るなら

わたしの人生に  あなたしかいらない

教えて  生きることのすべてを

あなたの  言うがままに

ついていくこと  それだけだから

海よりも まだ深く

空よりも まだ青く

あなたをこれけ以上  愛するなんて

私には 出来ない

 

あなたをこれ以上  愛するなんて

わたしには  出来ない

 

 

想い出

 

 

「今年」も「最高級の・さくらんぼ」(「山形県産・佐藤錦」) が、届きました。 

「今年」は「天候が良かった」ので「例年」より「出来が良かった」そうです。

 

「送ってくれた」のは「元・会社の先輩」の「土屋さん」( 私の「旧姓」と「同じ」) です。

「年賀状」が「来なかった」ので『今年は「さくらんぼ」は来ない』と

「思っていた」ので「嬉しかった」です。

 

  私は、丁度「30歳」の時「家の近く」(徒歩で5分) の「支店」から

「3ヶ店目」の「支店」(旧・本店) に「転勤」しました。

  そして「土屋さん」と「出会い」ました。

 

「土屋さん」は「スケールが大きく」・「男らしい人」でした。

「土屋さん」は「支店長代理」で、私は「平社員」でした。

  私の「同期入社組」には「半数位」は「係長」に、なっていました。

  私は「翌年」「係長」に、なりました。

 

「土屋さん」は「仕事が出来・人脈の広い上司」でした。

「ゴルフ」の「ジャンボ・尾崎」とも「親交が深く」「その関係」より

「数多くの著名人」とも「面識があった」そうです。

 

「新規顧客開拓」の為「ジャンボ・尾崎」の「自宅」を「恐れる事なく・突撃訪問」し

「ジャンボ・尾崎」に「気に入られた」のが「きっかけ」だと「聞いた記憶」があります。

  私が「使っていた」「ゴルフクラブ」も「安物ながら」「ジャンボ・3兄弟」の「末弟」

「尾崎 直道」が「手がけた」「ゴルフショップ」で「スイングスピード」に、合わせて

「手作り」して「もらった物」でした。

 

「土屋さん」には「カリスマ性」が有り「皆、一丸となって」

「支店表彰」を「目指し」ました。

 

  私は「仕事」も「人一倍」した、つもりです。

  私は「個人表彰」の「候補」に、なりましたが「更に上の実績」を「収めた人」が、おり

「落選」しました。

 

「遊び」も「人一倍」した、つもりです。

  私が「家に帰る」為の「最終電車」は「早く終わって」しまいます。

  私は「義父」が「念のために借りていた官舎」を「寝城」(ねじろ)とし

「自宅に居る」のは「土曜日の昼頃」〜「日曜日の夜」だけでした。

 

「土屋さん」と、一緒に「過ごした」「3年間」には「多くの想い出」」が、有ります。

 

「ゴルフ」も「月」に「2〜4回」しました。

  私は「遠回り」しながら「土屋さん」を乗せ「一緒」に「ゴルフ場」に、行きました。

  私は「新入社員」として「入社」してから「ゴルフ」を「始め」ました。

「始めた頃」は、かなり「飛距離」が、出ていました。

 

  しかし「左右に大きく曲げ」「同伴者に迷惑を掛けている」と「自覚」すると

「思い切り」が「無くなり」「こじんまり」した「ゴルフ」に

「成って」しまいました。

「体力」が「年々落ちてきた」事も「拍車を掛け」ました。

 

「マージャン」も「支店の人達」と「週に2回位」は、やりました。

「麻雀」は「大学生の頃」から「夢中」に、なりました。

「将棋」と「違い」「弱くても」「運があれば勝てる」のが「魅力」でした。

 

「何の大会だった」のか「忘れて」しまいました。

「毎年」「箱根」で「広範囲の地域」から「200人位」集まる「泊まりがけ」の

「麻雀大会」が「開催され」ました。

「有力企業」が「スポンサー」に、なっていました。

 

「私達の会社」からも「支店の枠を超え」「土屋さん」を「慕う」

「20人位」が「集い」(つどい)「出場」しました。

 

「スナック」にも「週に1回」は、行き「支店の人達」で「飲み・歌って」いました。

「この頃」私の歌は「3曲・100円」と、言われていました。

  私は「店の女性従業員」と「話すのが苦手」でした。

「口数」が「少なく」「従業員達の間」で『誰が「私の本音」を「聞き出す」』かを

「賭けていた」という「話」を、後で「聞き」ました。

 

  私達「バブル世代」は「他の支店の人達」も「大なり小なり」

「似た日々」を「経験」したと、思います。

 

 

「毎年」「支店対抗」の「野球大会」が「開催され」ました。

  私は「新入社員」の頃から、ずっと「ピッチャー」でした。

「キャッチャー」は「土屋さん」でした。

「土屋さん」は「高校時代」は「名門高校」の「野球部員」でした。

 

  私は「野球部」の「経験」は無く「バックスピン」の、かかった「伸びる球」を

「投げる事」は「出来ません」でした。

「地肩」だけで「投げて」いました。

「ボール」を「わしづかみ」にし「ぶん投げる」イメージ」でした、

「コントロール」は「良い方」でした。

「野球」の「未経験者」には「そこそこ」「通用」しました。

 

「私の投げ方」では「初速」は、あるも「打者の手元」で「失速」して、しまいます。

「野球経験者」に、とっては「打ちごろ」の「球」に、成ってしまいました。

「よく打たれ」ました。

「勿論」「変化球」を「投げる事」は「出来ません」ので「直球一本やり」での

「勝負」でした。

 

「どの支店」に「在籍していた時代」なのか「想い出せ」ません。

「初任店」の「時だった」様な「気」も、します。

「当時」「会社が所有」していた「グラウンド」で「野球の試合」を、した時でした。

「相手の支店名」「ピッチャー名」を「ハッキリ」覚えています。

 

  私は「紛れ当たり」で「グラウンドの柵を超え」「奥の林まで」届く「ホームラン」を

  打って、しまいました。

「ボール」が「林の中」に「飛び込んだ時」の「ガサッ」という「音」を

「今も」「忘れる事」は、出来ません。

 

「同じ試合」で「外野手の間を抜ける」「ランニング・ホームラン」も

「打って」しまいました。

「その時「主審」だったのは、私が「卒業した高校」の「1学年先輩」の「高橋さん」でした。

 

「高橋さん」は「会社」の「野球部」に「所属」し「キャプテン?」だった、気がします。

「野球部に入れ」と「言われた記憶」が、有ります。

 

 

  私は「45歳〜53歳」の頃にも「同じ様な生活」を、しました。

「義父が所有」していた「住居を根城」(今は「二女」と「三女」が、住んでいます) として

「家に居る」のは「日曜日の昼」〜「夕方」という「生活」を、しました。

 

バブル崩壊」により「山一證券の自主廃業」「北海道拓殖銀行」・「日本長期信用銀行」他

「様々」な「金融機関」が「破綻」するという「異様な時代」でした。

「現実感」の「無い時代」でした。

「この時期」私は「法律の世界」に「携わり」ました。

 

「顧問弁護士」と「タッグ」を組み「不良債権の回収」に「務め」ました。

「ブログ」「嘘も方便」で「書かせて、いただきました」様に

「20件以上」の「裁判」は「全て・勝利」しました。(「和解」を「含む」)

 

『「倒産した債務者」・家族」』『「倒産した会社」・「代表者」・「家族」』には

「資産」は「残って」いません 。

「狙う」のは「第三者・連帯保証人」でした。

 

「第三者・連帯保証人」とは「個人事業」・「会社経営」に「携わって」いない

「連帯保証人」の事、です。

「父母」・「親戚」・「友人」が「連帯保証人」なる「ケース」が「ほとんど」でした。

 

「専門用語」で「恐縮」ですが「連帯保証人」には「保証人」と「異なり」

「催告の抗弁権」(さいこくのこうべんけん)・「検索の抗弁権」(けんさくのこうべんけん) が

「有り」ません。

「債務者」と「同じ立場」に、成ってしまいます。

 

・「催告の抗弁権」とは

   「債務者(「会社」・「自営業者」) に対して「先に請求しろ」と、言える「権利」

・「検索の抗弁権」とは

   「債務者」の「財産を処分し」「先に弁済させろ」と、言える「権利」

 

   です。

 

「その人達の資産」を「探し」「差押」し「現金化」し「弁済金」に「充て」ました。

「顧問弁護士」と「相談」し「考えられる法律」を「使い」「ありとあらゆる物を差押え」

「換金」し「弁済金」に「充当」しました。

 

「金融機関に積んである預金」「動産」「不動産」「給与・退職金」(「25%」)

「役員賞与」(「100%」)「議員報酬」(「100%」)「保険金請求権」「工事未収金」

売掛金」「地代・家賃収入」『上場企業が「株式を分割した際に発生する新株引受権」』

  等々「全部思い出す事」は、出来そうも、有りません。

 

「連帯保証人」も「弁護士に相談」し「必死に色々な手」を「策略」してきます。

「代表的」なのが「資産隠し」です。

「不動産」を「売却」したり「家族名義に変更」するのは

「常套手段」(じょうとうしゅだん)です。

 

「そうされる前」に、こちらは「処分禁止の、仮処分」を「裁判所」に「申し立て」ねば

「私達の負け」で「回収」は「困難」と、なります。

「時間との勝負」で「知恵比べ」でした。

 

「一人だけ」「潔い」(いさぎよい)「連帯保証人」が、いました。

「ハンコを押した」のは「自分の責任」だから「逃げ隠れはしない」と言い

「所有する不動産」を「次々に売却」し「累計」で「10億円」を「弁済」してくれました。

 

「広大な屋敷の敷地」も「分筆」し「売却」し「弁済」してくれました。

「遅延損害金」(「14%」)を「約定金利」(「6%程度」)に「減免」(げんめん) した為

「数十坪」の「狭い敷地」ながら「家屋敷」は「かろうじて」残りました。

 

「奥さんから」「お礼とも受け取れる文章」の「最後」に

「去年咲いていた桜」を「今年は見る事が出来ませんでした」と「私個人宛」に書いた

「無念さ」が「にじみ出た手紙」を、貰いました。

「桜の木」が「有った場所」は「売却され」「造成」されてしまって。いました

「当時「御夫婦」は「80歳代半ば」だったので「ご逝去」されていると、思います。

 

  いくら「仕事の為」「会社の為」に「やらざるを得なかった事」とは言え

  私には「贖罪」(しょくざい) し切れません。

 

「贖罪」は「テレビドラマ」に、よく出てくる「言葉」です。

「字幕なしのテレビ」を「見ている人」には「食材」に「聞こえる」かも、知れません。 

 

「贖罪」の「意味」は

「金品」を出したり「善行」(ぜんこう)を「積んだり」して

「犯した罪」を「償う」(つぐなう) 事、です。

 

「結果」として「多くの恨み」を「買い」ました。

「ネット」で「脅迫」されたり「文書」を「撒かれた事」も、有りました。

「警察官」が「自宅の周り」を「定例巡回」してくれました。

「会社」が「ALSOKの警備機器」を「無償」で「設置」してくれました。

「当時・小学生」だった「三女」は「怯えながら」「登校」しました。

 

「たとえ仕事」とはいえ「結果として」「いつの間にか」「家族の中」で

「宙に浮いた存在」に、私は、なってしまいました。

  そして「支店の人達」に「よく言った」「名言」が「生まれ」ました。

 

『「家の中」で「単身赴任」している』 

 

  しかし「驚いた事」に「私もそうですよ」と「答えた人」は「結構」いました。

「互いの事を気遣い」「理解しようとする」「気持」さえ、あれば

「家庭内・単身赴任」は「避けられる」と

「今になって」みれば「良く分かり」ます。

 

 

  私は「極度」の「機械音痴」で「方向音痴」でも、あります。

  特に「夜の細い道」を「走って」いると「迷子になった事」が「何度も」有ります。

「遠ざかる様に」「逆方向」に「走った事」が「何度も」有ります。

  この「方向音痴」のせいで、私は「過去のどこかで」「迷子になってしまった」様です。

 

 

チョー・ヨンピル」は「想い出迷子」という「歌」を、歌いました。

「作詞」:「作曲」は「テレサ・テン」の「別れの予感」と「同じコンビ」です。

 

チョー・ヨンピル」は「1,950年3月生まれ」の「韓国出身」の「代表的歌手」です。

「1,976年」に「釜山港へ帰れ」(プサンコウへかえれ) が

「韓国」で「大ヒット」しました。

  以後「韓国」では「歌王」と「呼ばれ」「永遠のオッパ (兄貴) の「愛称」(あいしょう) を

「貰って」います。

 

「1,982年」「日本」でも「「デヴュー」し

釜山港へ帰れ」「想い出迷子」が「ヒット」しました。

「1,987年」「NHK紅白歌合戦」に「韓国人」として「初めて」「出場」し

「以後」「4年連続出場」を「果たし」ました。

 

 

チョー・ヨンピル」「想い出迷子」「作詞」:「荒木 とよひさ」「作曲」「三木 たかし」

 

愛に溺れて  (おぼれて )あなたに疲れ

生きることにも  ため息ついて

ひとり口紅  ふきとるだけの

生き方だけなら  淋しい(さみしい)

こんな夜には  少しお酒で

泪の相手  しましょう

そして ぬけがら パジャマ  あなたのかわりに

時はあしたを 連れて  くるけど

過去のどこかで  迷子になってる

 

夢のつづきを  誰かに見ても

若くないから  あしたが恐い

綺麗ごとなら  愛するだけで

本当は 何んにも  いらない

だから鏡に映る わたしに

想い出ばなし しましょう

そして枕(まくら)を抱いて  あなたのかわりに

時はあなたの  移り香(うつりが)だけを

今もこの部屋  残しているから

 

こんな夜には  少しお酒で

泪の相手 しましょう

そして ぬけがらパジャマ  あなたのかわりに

時はあしたを  連れてくるけど

過去のどこかで  迷子になってる

 

 

「虫の知らせ」を「英語」で

 

「Sixth Sense」

 

(第六感)

 

と、言うそうです。