何気なく使っている言葉の意味

「言わぬことは・聞こえぬ」

 

 

「皆さん」は

「言わぬ事は 聞こえぬ」

   と いう

 

「ことわざ」を

「使った事」は

「有り」ませんか?

 

「言わぬ事は 聞こえぬ」の「意味」は

「言葉に して 言わなけれ」ば「相手に 気持ち」を

   伝えられない」ということだ 、そうです。

 

「言わぬ事は 聞こえぬ」の

「対義語」は「言わぬが花」だ、そうです。

「意味」は

 

「言葉のないほう が うまくいく」だ、そうです。

 

「私」が「思いついた」「反対語」は

「沈黙は金、雄弁は銀」

(「ちんもくはきん、ゆうべんは、ぎん」)

「その・意味」は、

 

「何も語らず に・黙っていること」は

「優れた雄弁より も・大切だ」です。

 

「私」に は「10年間 付き合いながら」も

「手を握っただけ で・終わった」と、いう

「不思議 な・体験」が、有ります。

 

「昭和・44年」

 

「中学 3 年生の時」

「立候補者が 誰もいない」為に

「私」は「生徒会長」を

「無理矢理・やらせられ」て

   しまいました。

 

「彼女」は「某中学」の

「生徒会」「副会長」でした。

 

「立候補したのか」

「推薦されたのか」は

「聞いていません」でした。

 

「彼女」の「人柄から」 して

「推薦された」と

「私」は「今も思って」います。

 

「学区内の「生徒会役員」の

「集まり」が、ありました。

 

「小柄」で「幼げな風貌の人」が

                       (「ふうぼう」

「ニコニコ」と

「同じ中学校の 友達」と

「話して」いました。

 

「私」は「その姿を見て」

「今まで」に「私が見てきた女性」で

「1 番 可愛い人」と、思いました。

 

「私」が「横顔を 凝視している・視線」に

                      (「ぎょうし」)

「気付いた」のか「私の方に・顔を向け」

「微笑んだ」様な、気がしました。

(「勘違いかも・知れません」)

 

「その日」は「一言も 口を交わすこと」は

「有りませんでした」が

「私」は「強い印象を持ち」ました。

 

「昭和・45年」

 

「高校の入学式」で「クラス分け」が

「有り」ました。

 

「私」は「理数系」の「A組」で

「男子ばかり」でした。

「彼女」は「文系」の「B組」で
「男子と 女子 半々位」でした。

 

「クラスは・違いました」が

「彼女」は「私」と 「顔を合わせた時」

「ビックリした様」な「顔」を、しました。

 

「コクリ」と「うなずく様」に

「軽く会釈」し「微笑んだ 様」な

   (「えしゃく」)

「気」が、しました。

 

「その後」も「廊下で出会った時」に

「軽く挨拶する程度」でした。

 

「いつ」も「お互い」に

「友達連れだった」ので

「2 人 だけ」で'「顔を合わす事」は

「無かった」と、思います。

 

「先」の「ブログ」

「会うは別れの始め」で

 

「紹介」した「雲地さん」は

               (「うんち さん」) は 

「G組」でした。  

 

「1クラス」「45人前後」で

「H組」まで、ありました。

「学年全体」で「約 360人位」

「学校全体」で「約 1,000人位」でした。

 

「私」は「理数系」に

「回されたにも 拘らず」

                  (「かかわらず」)

「数学 が・ダメ」でした。

 

「暗記 は・得意だった」ので

「中間試験」「期末試験」は
「一夜・漬」で「結構良い点」が
(「いちや・づけ」)

「取れたのです」が「模擬試験」と

「成る と・ダメ」でした。

 

「私」は「入学早々」「中学の部活」

「卓球部」と、違う「陸上部」に

「入部」しました。

 

「しかし」「中学生の時」から

「手伝っていた」

「牛の世話を する人」が 「足りず」

「手が回らなくなったため」

「1 週間」で「退部」しました。

「彼女」は「考古学部」に

「入部」しました。

 

「1 学年目が終わる頃」「担任」の

渡辺健三 先生」から「地方の高校」は

「都会の高校」に 「比べ」

「1年 遅れている」ので「浪人すること」を

「覚悟しろ」と「言われ」ました。

 

「私」は「入学する時」に「親」から

「浪人するだけ」の「お金はない」と

「言われて」いました。

 

「念の為」「もう一度 相談しました」が

「結論 は・同じ」でした。

 

「2 年生になる時」は

「文系」の「B組」に

「クラス替えする事」に「決め」ました。

 

「B組」にも「彼女を含め」「何人」か

「中学3年の時」の

「生徒会の役員」の「集まり の時」に

「見た顔」が 、ありました。

 

「席順」は「あいうえお 順」で

「彼女」は「私」から 「2 列離れ」た

「斜め後ろ」の「席に座り」ました。

 

「私」と 同じ様」に「A組」から

「B組」に「なった人もいれ」ば

「逆の人」も いました。

 

「皆」「仲良しとばかり」で

「話をして」いました。

 

「特」に「こちらから彼女」に

「話に行く用事も」なく

「彼女の方」から「来ること」も

「ありません」でした。

 

「特段」「私」を「意識する素振り」も

「ありません」でした。

 

「私」が「彼女」に「関心がある様」に

「彼女」も「私」に

「興味をもってくれている」と、いう

「私の考え」は「単なる妄想だ」と、思いました。

 

「私」の「通学経路」は

「家」から「最寄り駅」まで「徒歩で 20分位」

「学校のある駅」まで「蒸気機関車」で 「5分位」

「降車駅」から「学校」まで「徒歩」で「15分位」でした。

 

「私」の「卒業した中学校」から

「私」と「同じ高等学校」へ「進学した人数は」

「学区内」でも「1 番・多く」「40人位」いました。

 

「最寄り駅まで」は「徒歩」「自転車」

「原付オートバイ」と「人それぞれでした」が

「ほとんどの人」は「降車駅から学校」まで

「歩き」ました。

 

「男子」は「ほとんど」が「ゲタ を・履き」

「靴を履いていた」のは「ひと握りの人」でした。

 

「ゲタ」での「通学が認められていた」のは

「県内」でも「私」の

「通った学校だけだった」と、思います。

 

「私」の「学校」の「モットー」は

質実剛健」「文武両道」でした。

(「しつじつごうけん」)

 

「貧しい者」にも

「門戸を開く」との「趣旨」より

                              (「しゅし」)

「ゲタ」を「履くこと」が

「許されて」いました。

 

「かまやつ  ひろし」は、

「下駄を鳴らして奴が来る」の

「歌詞で始まる」「我が良き友よ」という

「歌を、歌って」いました。

 

「私達」の「1学年先輩」から

「3年間・連続」して「県大会の決勝」で

「0 - 1」で「敗れ」「甲子園」を

「逃し」ました。

 

「この間」に「投げた2人のピッチャー」は

「ドラフ」で「指名され」ました。

 

「1人」は「ドラフト1位」で「指名され」

プロ野球」で「数々の成績」を「挙げ」

「引退後」は「野球の・解説者」に、なりました。

 

「栃木県・作新学院」から
「法政大学」に「進学」し

「後」に「空白の1日事件」と

「揶揄されなが」ら

(「やゆ」

「巨人に入団」した

「江川 卓」の「時代」でした。

 

「私達」が「敗れた学校」が

「甲子園」で「優勝した時」の

「監督」への「インタビュー」で

「監督」が「甲子園で優勝する」より

「地区大会」で「優勝する方」が

「大変だった」と「答えた事」より

「当時」「私達の学校」は

「悲運の学校」と「呼ばれて」いました。

 

「後輩達」が「甲子園出場」を「果たし」

「汚名」を「返上して」くれました。

 

「私」の「同級生」だった「川口  和夫」は

「一般入試」で「早稲田大学」に「進学」し

「ショートを守り」「キャプテン」

「任され」ました。

 

「卒業後」は「東証1部上場企業」の

「社長・令嬢」と「結婚」し

「婿養子」に「入り」ました。

 

「同学年」の「荒井 信久」は

「一般入試」で「明治大学」に「進学」し

「キャチャー」で「活躍」しました。

 

明治大学」の「監督も務め」

「現在」は「私立高校」の「野球部」で

「監督」を「務めて」います。

 

「2,018・9・30」に「開催され」た

「中学校の同窓会」で

「40年ぶり」に「再会」し

「当時」の「エピソード」を

「語り」ながら「旧交を温め」ました。

 

「私」は「生徒会 と・部活」の

「顧問・だった」

「秋山武仁 先生」が「嫌いだった」ので、

「頻繁」に「野球部に顔を出し」て

「一緒に遊んで」いました。

 

「同窓会に参加した人」から

「話を聞く」と

「秋山 先生」を「嫌っていた人」は

「多かったよう」でした。

 

「私」は「大学時代」に

「彼女」を「誘って」「何回」か

「母校の応援」に「行き」ました。

 

「彼女」の「通学経路」は

「海」から「ごく近い自宅」から

「バスに乗り」

「学校のある駅」まで「15分位」

「駅」から「学校の最寄り」の

「バス停」まで

「バス」に「5分位・乗り」

「通学して」いました。

 

「通学経路」で「顔を合わせる事」は

「あり得ません」でした。

 

「ところ」が「ある日の事」でした。

 

「いつものよう」に「蒸気機関車を降り」て

「学校に向かおう」と「改札口を抜けた時」に

「彼女」が「物陰に隠れる様」に、して

「立って」いました。

 

「私」は「てっきり」「バス」を

「待っているのか」と

「思い」「みんなと一緒」に

「歩き始めよう」と、しました。

 

「すると」「彼女」は

「私達の方」に「向かって」

「歩み寄って」来ました。

 

「私」は「立ち止まって」

「彼女」が「近づいてくる」のを

「待って」いました。

 

「彼女」は「私」が

「列車」から「降りてくる」のを

「待っていた」と「言い」ました。

 

「私」が「何故・バスに乗らず」に

「私」を「待っている」と「問う」と

「彼女」は「一緒に歩いて」

「学校まで行く」と「答え」ました。

 

「私」は「彼女」は「私」に「興味」を

「持っていない」と「思い込んでいた」ので

「彼女」の「行動」に「ビックリ」しました。

 

「皆んながいる」「教室」では

「声」を「かけられなかった」そうです。

 

「皆んな」を「先に・やり」
「私達」は「少し遅れ」て

「歩き始め」ました。

 

「彼女」は「先に行く集団」から

「離れたかった」のか

「後ろを振り返り」ました。

 

「そして」「後をついてくる人」が

「いない」のを「確認」し

「私」「足が遅いから」

「ユックリ」「歩いて下さい」と

「言い」ました。

 

「私」は「彼女」と「付き合う事」を

「半ば あきらめていた」ので

「有頂天」に「なってしまい」ました。

(「うちょうてん」)

 

「私達」は「挨拶」の

「言葉をかけたこと」は

「ありました」が「話をする」のは

「初めて」でした。

 

「初めて」「彼女の本当の声」を

「聞いた気」が、しました。

 

「お互い」の「趣味・家族構成」等を

「話している」と「いつのま」にか

「学校」に「近づいて」いました。

 

「二人」は「目立たぬ様」に

「少し離れ」て、歩きました。

 

「そんなこと」が

「何回」か「ありました」が

「教室」で「話をすること」は

「ありません」でした。

 

「彼女」の「家から近い町」で

「開催」された「祭の時だった」と

「憶えて」います。

 

「列車を乗り継ぎ」「私」と

「友達」「4、5 人」で

「歩いている」と

「反対」から「彼女を含む」

「同じ位の数」の「団体」が

「歩いて」来ました。

 

「明るい色」の「シャツを着て」

「薄い色」の「少し短め」の

「スカート」を「はいた」

「彼女の姿」は

「普段見慣れて」いた

「制服姿」と「違って」

「活発」な「印象」を

「受け」ました。

 

「高校生」の「時代」に

「二人」で「何処かへ出掛け」た

「記憶」は、ありません。

 

「電話して」も「相手の家族」が

「最初」に「出てくる」ので

「特」に「用事がなけれ」ば

「互い」に「連絡・しません」でした。

 

「彼女」は「子供の頃」から

「ピアノ」を「習っていた」そうです。

 

「彼女」の「姉が 在学して いる」

「地元」にある「国立大学 の・教育学部」に

「進学すること」を「目指し」て、いました。

「目標」は「中学校」の「音楽教師」です。

 

「彼女」には「姉の他」に

「他県」の 「ある大学」の

「医学部」で「勉強している」

「兄」と

「同じ高校」の「1 年生」で

落研」に「入っている」

(「おちけん」)

「弟」が、いました。

 

「私」は「家の手伝い」を

「しながら」

「東京にある」「私立大学」を

「目指し」て、いました。

 

「特」に「将来の夢」は

「決まっていません」でした。

 

「お互い」に「目標の邪魔」に、なる

「行動」は「慎み」ました。

               (「つつしみ」)

 

「昭和・47年」

 

「受験」が「終わって」

「彼女」の「合格発表の日」は

「私」も「一緒」しました。

 

「彼女」は「東京にある短大」には

「合格していました」が

「そちら」に「行くつもりはない」と

「言っていた」ので

「少し」「心配していました」が

「無事」に「合格して」いました。

 

「私」も「既に」

「目標 の・大学」の

「目標 の・学部」に

「合格して」いました。

 

「私達」は「卒業」しました。

 

「私」は「大学に近い」

「東京都 新宿区 上落合」

   に、ある

「アパート」に「引っ越し」ました。

 

「すぐ隣」が「中野区」で

南こうせつかぐや姫」が

「歌い」「大ヒット」した

神田川」から

「20・m」も「離れていない」

「老朽化」した「木造アパート」の

「2・階」の「4畳半 の・部屋」が

「私」の「住みか」に、なりました。

 

「トイレ」は「水洗 で・なく」

「旧式 の・共用」でした。

 

「下駄箱」は「廊下に置いてあり」

「共用」でした。

 

松山千春」が「歌った」
「恋」と、いう「歌」の

「歌詞」の「一節」に

「鍵は いつもの 下駄箱の 中」が

  「あります」が

 

「こういった」「外にある」

「下駄箱 で なけれ」ば

「そんな事」は「出来」ません。

 

「銭湯」が「1 回・45円」の

「時代」でした。

 

「当時」は「とにかく」

学生運動」の「真っ只中」でした。

 

革マル派」と「中核派」の

「対立 が・激しく」

「すぐ目の前」で「争って」

「血ダルマ」に「なっている人」を

「何人 も・見かけ」ました。

 

「2 年 前」には「東大 の・入試」が

「中止 に・なって」いました。

 

「私」の「学校 の・門」は

ロックアウト・されて」いました。

 

「しかし」「門 の・端」は
「空いて」おり

「学校の中」へ「入ること」は

「可能」でした。

 

「私」は「ノンポリ・でした」ので

学生運動」に「参加する・気」は

「全く ありません」でした。

 

「私」の「学・部」は
「自由・主義」で

「授業は開く」が
「出席しなく」とも

「レポートさえ・出せ」ば

「卒業させる」と、いう

「考え方」でした。

 

「そのかわり」

「卒業時 の・評価」は

「優・良・可」の 「内」

「最低ランク」に、なること は

「覚悟せね」ば「なりません」でした。

 

「但し」「ゼミ」は「必須」でした。

                           (「ひっす」)

 

「私」が「受講した」

「ゼミ の・先生」は

「労働評論家」で

「日本 生産性・本部」の

「代表者 を・務めて」いた

「孫田 良平 先生」でした。

(「まごた りょうへい」)

 

「先生」は「2,011・年」に
「逝去・され」ました。

 

「生前」に「門下生への教え的」な

「自筆の・遺言書」を

「書かれていた」ようです。

 

「私の・元」にも「ご遺族」から

「遺言状」の「コピー」が

「送られて」来ました。

 

「先生」の「薫陶 を・受けた 人」で

               (「くんとう」)

「一条 真也」と、いう「人」は

「隣人の 時代・遊園社会の 作り方」

   と、いう

「本」を「出版して」います。

 

「結局」「私」は

「4・年間」で「4・日」しか

「授業」に「出席しません」でした。

 

「最初」の「2・年間」は

「彼女」が「高校生の・時」に

「所属していた」「考古学・部」

「残り」の「2 年・間」は

軟式テニス・同好会」に

「所属」しました。

 

「今」に「なってみれ」ば

「その間 の・経験」で
「学校 の・授業」より

「大切な物 を・得た」と

「思い」ます。

 

「話 は・戻ります」が、

「私 と・彼女」は
「遠距離」で「且」つ

「交通の便」が「悪い交際」の

「為」に

「頻繁 に・は」
「会え・ません」でした。

 

「待ち合わせ場所」を「間違え」て

「わざわざ」「3 時間以上かけ」て

「上京」し「2 時間以上・待たせた」

「挙句」「会えずじまい」で

(「あげく」)

「帰してしまった事」も、ありました。

 

「結果」と、して「相当期間」

「絶交状態」に「なってしまった」事も

「有り」ました。

 

「他」にも「怒らせてしまった」事が

「数回」ありました。

 

「そんな時」は「一縷の・望みをかけて」

                       (「いちる」)

「電話しました」が「何故」か

「交際を復活して」くれました。

 

「お互いの家に行き」「挨拶」して

「お互いの家族」と「一緒」に

「食事」も、しました。

 

「私」の「汚いアパート」にも

「1 回」だけ「来たこと」が

「有り」ました。

 

「私」は「気の利いた」

「食事をする・場所」には

「行った事は・ない」ので

「その時」には「近所に・ある」

「綺麗とは とても・言えない」

「中華食堂」で「カツ丼」を

「御馳走」しました。

(「ごちそう」)

 

「彼女」は「不平も・言わず」

「美味しい」と「言って」

「喜んで・食べて」くれました。

 

「比較的・遠方」にも

「行き」ました。

 

「私」が「帰省した時」

「兄」の「車を・借り」て

「ドライブした事」が

「有り」ました。

 

「私」は「高校3年生の時」に

「運転・免許証」を

「取得して」いました。

 

「しかし」「全く」の

「ペーパードライバー・だった」ので

「まともな運転」は「出来ません」でした。

 

「見かねて」「彼女」が

「運転を・代わってくれ」ました。

 

「観光地と・呼ぶ」のも

「おこがましい」「小島を・散策した」
「時」でした。

 

「飛び石」を「飛び越える」為に

「手を 引っ張って・あげ」

「そのまま」「手をつないで」いました。

 

「しかし」「強く握り返し」て

「くれること」は

「有りません」でした。

 

「しばらくする」と
「つないだ手」を

「離して・しまい」ました。

 

「帰り道」も「彼女」が「運転」し

「彼女の家」に「着き」ました。

 

「彼女」は「車を降り」

「別れ」ました。

 

「その後」は「自分」で

「運転しました」が
「運転が・未熟な」為に

「彼女の家の・近く」で
「誤って・槙塀」に

         (「まきべい」)

「車を・擦って」しまい

      (「こすって」)

「兄」に「大目玉を・食い」ました。

 

「いつも」「そんな感じ・なの」

   でした。

 

「私」が「近付こうと・する」と

「スルリ」と「身」を

「かわして・しまい」ました。

 

「あたか」も「N極の・磁石」を

「N極の・磁石」に「近付ける」と

「離れて・しまうよう」な

「感じ」でした。

 

「私に・とって」も

「青春・時代」でした。

 

「遠く・離れている」為 に

「目が・届かない」事を

「良い・こと」に

「別の・女性」と

「親しく・なった」事も

「有り」ました。

 

「一・度」「ヤキモチ」を

「焼かせでもすれ」ば

「少し」は「關係が・進展する」かも

「知れない」と「思い」

「その人」が「編んで・くれた」

「マフラー」を「首に・巻いて」

「彼女に 会った・こと」が

「有り」ました。

 

「案の・定」「彼女」は

「1 日・中」「ずっと・不機嫌」でした。

 

「帰り際」に「彼女」は

「何で」「こんな・遠くまで」

「来たんだろ」

「私」「馬鹿・みたい」と

「言って」「帰って行き」ました。

 

「私」は「今度・こそ」

「御仕舞い だと・思い」ました。

 

「しかし」「どうして」も

「連絡しなけれ」ば「ならない」

「用事が・出来」て「電話・する」と

「会って・くれる」と

「言って・くれ」ました。

 

「だからと・言って」

「関係が・進展した訳」では

「有りません」でした。

 

「以前」と「何ら・変わり」は

「有りません」でした。

 

「昭和・47年」

 

「彼女の・同級生達」は

「卒業の・為」の「最期の・課題」

   と、して

「発表会」を「開催」しました。

 

「私」も「手ぶら」で

「見に・行き」ました。

 

「彼女」の「1 番・後ろ」の

「目立たない・席」で

「見ていて・欲しい」と、いう

「頼みを・忠実」に

「守って」いました。

 

「彼女」は「ピアノで・無く」

「オペラ」の、様な

「歌を・歌唱」しました。

 

「終わった・後」に

「それぞれの・人達」は

「知り合いに・囲まれ」て

「記念品」や「花束」を

「渡されて」いました。

 

「中」には

「彼氏らしき・人」から

「花束」を「受け取って・いる」

「人」も、いました。

 

「彼女の・周り」にも

「小さな・人垣」が

「出来て」いました。

 

「しかし」「取り囲んで・いる」のは

「女性」と「年配の・男性だけ」でした。

 

「私達」の「年代の・男性」は

「いません」でした。

 

「彼女」は「私」に「一瞥」を

                            (「いちべつ」)

「くれた・だけ」で

「帰って・行き」ました。

 

「もし」「あの頃」に

「青い・バラ」が

(「花言葉」が「夢叶う」)

「あったと・した」なら

「私」は「100・万本」の

青いバラの・花束」を

「渡したと・思い」ます。

 

「昭和・51年」

 

「2・人」は

「就職」しました。

 

「彼女」は「希望・通り」に

「中学校」の「音楽・教師」に

「成り」ました。

 

「折し」も

「第2次・オイルショック」の

「真っ只・中」でした。

 

「私」は「遅刻して・しまい」

「第一・志望」の「面接」を

「受けさせて・もらえません」でした。

 

「大学の・授業」に

「出席して・いなかった」

「為」に

「面接の・テクニック」を

「知りません」でした。

 

「生まれ・つき」

「嘘」も「言い訳」も

「嫌い」でした。

 

「第二・志望」の「面接」で

「志望・動機」を「聞かれた・時」に

「第一・志望」に「断わられた」事を

「素直」に「話して・しまい」ました。

 

「学校の・成績」が「最低・だった」事 と

「相まって」「なかなか」「内定」を

「貰え・ません」でした。

 

「両親」と「彼女」は

「心配して・くれました」が

「何とか」「補欠」で

「入社・出来」ました。

 

「昭和・53念」

 

「私達」は「相変わらず」
「煮え切ら・ない」

「関係が・続いて」いました。

 

「初めて」「顔を・合わせて」から

「10 年 の・月日」が
「既に・経つて」いました。

 

「私」は「このままで」は
「お互い」に

「先に進めない」と「常々」

「思って」いました。

 

「初めて」「二人」で

「お酒を・飲んだ」時に

「酔った・勢い」で
「切り札の・言葉」を

「発し」ました。

 

「彼女」は「首を横に振り」

「N O」と「答え」ました。

 

「理由を聞いて」も
「意味・不明」で「決して」

「納得できる・もの」では
「有り・ません」でした。

 

「私」は「終わりに・しよう」と
「思い」ました。

 

「私」は「別れの・言葉」を「告げ」

「唖然と・した」「顔をして・いる」

(「あぜん」)

「彼女」を「尻目」に
「先に・帰り」ました。

 

「当時は・若く」
「シチュエーション」を

「考える・べき」

    と、いう

「発想」も「有り・ません」でした。

 

「まして」や「裏腹な・女心」など

「全く・知りません」   でした。

 

「私」に「シラフで・告白できる」

「勇気が・有った」なら

「彼女」は「首を・縦に 振り」

「YES」と「言ったかも・知れない」と

「今」は「思って」います。

 

「それから・数ヶ月後」「偶然・にも」

「私」の「小学生・時代」の

「恩師の・紹介」で

「降って・湧いた」様に
「見合いの・話」が

「持ちあがって」きました。

 

「相手は・勿論」
「現在」の「妻」でした。

「一目で・気に入り」

「結婚・する」事に

「決め」ました。

 

「母」に「説得・され」て
「彼女に・電話」し

「説明」しました。

 

「彼女にとって」も「なんら」

「異存の・無い話」の「様」でした。

 

「数日・後」「突然」

「彼女」が
「車で・やって 来」ました。

 

「そして」「結婚祝い・だと」

「言って」「記念・品」を

「手渡・され」ました。

 

「この・記念品」が
「私」の「10・年間」の

「結晶」だと「思う」と

「情けなく」て「涙が・出そうに」

「成り」ました。

 

「こんな物」は「要らない」から

「私」の「10・年」を「返せ」と

「危うく・言いそう」に
「成り」ました。

 

「こんな物」を「貰って・喜ぶ」と
「思って・いるのか」と

「危うく・言いそう」に
「成り」ました。

 

「いきなり・来たので」

「私」は「パジャマ姿」でした。

 

「私」の「家の前」の

「道は・狭く」

「Uターン・する」のが

「難しい・為」に

「心配して・いました」が

「程なく・して」
「戻って・来」ました。

 

「彼女」は「車を止め」て

「窓越・し」に

「深々と・お辞儀」を、しました。

 

「私」は「縁側に座った」まま

「力・無く」
「手」を「振り・返し」ました。

 

「程なく・して」

「風の・便り」で
「彼女」も

山梨県の・開業医」と

 

「結婚・した」と
「言う・話」が

「私の耳に・入って」

「来」ました。

 

「彼女」の「兄」が

「開業医・だった」ので

「ひょっと」して

「その関係」かも「知れ」ません。

 

「この話」は「とうの・昔」に

「頭」から「飛ん・で」

「しまって・いる」と

「思って」いました。

 

「今」「これを・書きながら」

「思った・事」が「有り」ます。

 

・「高校を卒業後」「特段に用事が

 「有ったわけで」も「無いのに」

 「高校2・3年」時「 2人の 担任」だった

 「青木慶成 先生」の

 「自宅でもある お寺」に

 (「先生は僧侶でもありました」)

 「行った」事が、ありました。

 

   「先生は、私達 2人」を「見て」

   「ビックリした顔をして」

  「お前達 」「付き合って いたのか」と

  「驚いて」いました。

 

・「私が結婚」後「暫く」して「当時の級友」と

 「ゴルフ」を、した、事が「有り」ました。

   「誰か」が「彼女」を「好きだった」と

 「言い」ました。

 

    私達」が「付き合っていた」事を

 「知りません」でした。

 

・「高校を卒業」して「20 年・位」

 「経っていた」と「思い」ます。

 「当時の級友」と:「会う機会」が

 「有り」ました。

 

   「私」が「高校生」の「頃」

 「付き合っていた」「人がいた」と

 「言って」も「相手」が

 「誰だった」のか 「知りません」でした。

 

「馬鹿な事」に「私」は「私達の交際」を

「周りの人達皆んな」が「知っている」と

「勘違いしていた」の、でした。

「全く」「周知されていなかった」の、です。

 

「私」でも「彼女」でも

「皆んなに言いふらせ」ば

「あんな」「訳の分からない」

「10・年間」は、「無かった」と

「つくづく」「思い」ます。

 

「例え」「公になりたく無い」という

「彼女の希望」が「あったとして」も

「そうすべきだった」と「思い」ます。

 

「また」「彼女の本心」を「露骨な言葉」で

「質せば良かった」と「思い」ます。

(「ただせば」)

 

「かといって」「無駄な 10・年間」とは
「決して」「思って」いません。

 

「その時に悩み」「考えたこと」が

「心の深層」に「残っていたから」こそ

「私」は「今の心境になれた」と「思い」ます。

 

「私」は「思いがけず」

「支店の人達」と「触れ合うチャンス」を

「貰えた」事に「感謝して」います。

 

「支店の人達」は「私の考え方」を

「一変してくれ」ました。

 

「それまで」の「周りの人」は

「黙っていて」も「自分の事」を

「分かってくれ」て「いる」はずだ」

   という

「考え方」は、もう」「有り」ません。

 

「そんな」「傲慢な考え」は

「今」の「私の頭から」は

「完全」に「消し去られ」て、います。

 

「とにかく」「今の私」は

「知らない人」にも「平気」で

「話しかける」事が「出来」ます。

 

ナポレオン・ボナパルト」の「辞書」に

「不可能という」「文字が無かった」様に

「今」の「私の辞書」には

「臆病・ためらい・戸惑い」の、様な

「文字」は、ありません。

 

「先日」「前回のブログ」

「嘘も方便」の「中」で

「中条きよし」が「歌った」

「嘘」の「歌詞」が「1・節」

「足りなかった」事を

「発見」しました。

 

「パソコンで」「調べていた」ら

「歌が出てきた」ので

「呟くよう」に「歌ってしまい」ました。

 

「そした」ら「次々」と「懐かしい歌」が

「出てきた」ので

「だんだんと大き」な「声」で

(「普段、トラックの中」で

 「歌っている」様な「大きな声」で」)

「懐かしくて泣きそう」に、なり ながら

「歌って」しまい、ました。

 

「義母」から「貰った「ワイン」を

「飲み」「少し」「酔っていたせい」も

「あった」かも「知れ」ません。

 

「医者」に「切迫流産」の「恐れがある」と

「診断され」て「里帰り出産」に「備えている」

「長女」の「話し」では「5 ・時間」「位」は

「歌っていた」そうです。

 

「妻から」は「下手くそだ」から、

「二度と歌うな」と「諌められ」ました。

                             (「いさめ」)

 

「しかし」「その言い方」は

「私の歌も「満更ではない」と

「言っているよう」に「聞こえ」ました。

 

「ポールモーリア・オーケストラ」の

エーゲ海の真珠」の、様に

「歌詞のない歌」は「ラ行」の

「音」だけを「使って」「歌い」ました。

 

「聞いたこと」の、ない

「歌」も「自分」で「勝手」に

「メロディー」を「作って」

「歌い」ました。

 

「感性を磨く、努力」を、して

「来た結果」「以前より歌」が

「上手になった」と「思い」ます。

 

「高い声」も「裏声で無く」

「地声」なの、で

「喉」も「枯れ」ません。

 

「話の様」に「書くこと」も

「止まらなくなって」しまい、ました。

 

「Ipab」でも「打ち続ける」と

「フリーズ」して、 しまいます。

 

「徒然」に「打っている」ので

(「つれづれ」)

「5 回・位」「動かなくなって」

   しまいました。

 

「放置して」「復旧する」のを

「待っている方」が

「時間が掛かり」ました。

 

「ついでに言わせ」て「貰い」ます。

「皆さん」には「ケータイ」が

「有る」ので「ザックリ」「言って」

「次の様」な「メリット」が

「有る」と「思い」ます。

 

「ドンドン」「話すこと」を

「お勧め」します。

 

「今」の「自分達」が

「幸せである」事を「実感して」下さい。

 

・「待ち合わせの場所」を「勘違いして」も

   「ひたすら我慢して」「待っ事なく」

   「軌道修正」が、できる。

 

・「知らない場所」でも 「ケータイ」に

 「詳しい人」は「簡単に検索」できる。

 

・「人に聞かれて」は 「都合が悪い時」は

   「電話を切らず」 「場所を変えれば」済む。

    「又」は「かけ直せ」ば、済む。

 

・「面と向かって」「言いづらい話」は

   「メール・ライン」を「すれば」済む。

 

・「ライン」を「使え」ば

 「無料」で「長電話」が、できる。

 

・「ケータイに詳しい人」は

   「顔を見ながら話」が、できる。

 

 

「キリ」が、ないので

「私の結論」を「言い」ます。

 

「人と人との間」には

「話す事」に、よって「理解が生じ」

「やがて」それ、が「愛に生まれ」変わる。

 

「布施 明」  

「愛の 園」  

「作・詞」 「山上 路夫」  

「作・曲」 「平尾 昌晃」

 

そこには 花が  咲いて いる

愛の 花が  咲いて いる

いくら 摘んで も  花は つきない

どこに  どこに あるの  愛の 園

ふたり  ふたり だけ の  愛の 園

 

そこには 夢が  あふれて る

愛の夢 が  あふれて る

眠るふたり を  夢が とりまく

君と  君と 行こう  愛の 園

ふたり  ふたりだけ の  愛の 園

 

そこには いつも  ふたり だけ

愛し合って る ふたり だけ

ちょうど  アダム と イブの ように

君と  君と 生きる  愛の 園

ふたり  ふたりだけ の  愛の 園

 

どこに  どこに あるの  愛の 園

ふたり  ふたり だけの  愛の 園

 

「言わぬことは聞こえぬ」を

「英・語」で

 

「I cant not hear you say that」

 

「言わぬが花」を、英・語」で

 

「Silence is more eloquent than word」

 

「沈黙は金、雄弁は銀」を、英・語」で

 

「Silence is gold eloquence is silver」と

 

  「言・う」そうです。