何気なく使っている言葉の意味

「乗り 掛かった・船」

(「のり かかった・ふね」)

 

「皆さん」は

「乗り 掛かった・船」

   と、いう

 

「ことわざ」を

「使っ た・事」は

「有・り」ませんか?

 

「乗り 掛かった・船」の

「意・味」は

「下・記」だ、そうです。

 

・「船」は

 「舟・でも」

 「正 し・い」

    そうです。

 

 「一・旦」
 「始め た・事」や

 「関わっ た・事」は

 「途・中」で

 

 「身を 引く・事」が
 「出 来・ず」に

 「行けろ ところ・まで」

 「行っ て・みる」と

 

 「い う・意味」の

 「ことわざ」だ

    そうです。

 

「乗り 掛かった・船」の

「由・来」は

「下・記」だ、そうです。

 

・「乗っ た・船」が

 「出 航・して」

 「岸 から・離れる」と

 「も は・や」

 

 「途 中・では」

 「降りる・こと」が

 「出来 ない・こと」が

 「由・来」で

 

 「一度 始めた・事」は

 「途・中」で

 「事情 や・事態」が

 「変わ っ・て」も

 

 「最 後・まで」

 「止め る・こと」が

 「出 来・ない」と

 「い う・意味」の

 

 「ことわざ」だ

    そうです。

 

 「ち な・み」に

 「乗り掛けて いる・船」は

 「乗り 掛かった・船」と

 「語調が 似て・います」が

 

 「未 だ・船」が

 「出航して いない・ので」

 「物・事」を

 「途中 で・止めたり」

 「引き 返す・事」は

 「出来 る・ので」

 「勘 違い・しない」

 「様」に

 

 「注意 が・必要」な

 「言 い・回し」だ

    そうです。

 

「乗り 掛かった・船」の

「代 表・的」な

「使 用・例」は

「下・記」だ、そうです。

 

・「彼」は

 「友 人・から」

 「彼 女・との」

 「恋 愛・相談」を

 

 「受けた から・には」

 「乗り 掛かった・船」と

 「心 に・決め」て

 「二・人」が

 

 「結婚 する・まで」
 「手 を・貸した」

    そうだ。

 

・「彼・女」は

 「乗り 掛かった・船」は
 「途中で 降りられ・ない」

 「様」に

 

 「始め た・仕事」は

 「途中 で・投げ出す」
 「事」は

 「出 来・ず」

 

 「最 後・まで」

 「やらざる を・得ない」

 「事」を

 「百も 承知の・上」で

 

 「今 まで・誰も」
 「手に 付け・無かった」

 「面・倒」で

 「困難 な・仕事」に

 

 「首 を・突っ込んで」

 「深入り・して」

    しまった。

 

「乗り 掛かった・船」の

「類 義・語」を

「検 索・して」も

「ピン と・来」ません。

 

・「引く に・引けない」

   (「ひく に・ひけない」)

 

・「後に 引け・ない」
 (「あとに ひけ・ない」)

    と も

 「表・現」します。

 

 「自・分」の

 「立場 や・面目」を

 「保 つ・為」に

 「最・早」

 

 「相・手」に
 「譲歩 し・たり」

 「引き 下がる・事」が

 「出 来・ず」に

 

 「引っ込み が・付かない」

    と、い う

 「意・味」の

 「慣 用・句」です。

 

「乗り 掛かった・船」の

「対 義・語」を

「検 索・して」も

「出 て・来」ません。

 

・「君子 は・豹変す」

   (「くんし は・ひょうへんす」)

 

・「元・々」は
 「立派な 人物・ほど」

 「自・分」に

 「過ち が・あれ」ば

 

 「すぐ に・改め」て

 「正しい道 に・戻る」

    と、いう
 「ポジティブ」な

 

 「意 味・でした」が

 「現 代・では」

 「躊 躇・無く」

 (「ちゅう ちょ」)

 「今・まで」の

 

 「言動 を・ひるがえし」

 「変わり身 が・早い」

    と、いう

 「ネガティヴ」な

 

 「ニュアンス」で

 「用いら れて・いる」

 「ことわざ」です。


 「辺・り」が

 「妥・当」な

 「気」が、します。

 

 

「鳥羽 一郎」は

(「とば いちろう」

 

「兄 弟 船」

(「きょうだいぶね」)

   と、いう

「歌 を・歌い」ました。

 

「1,982・年」に

「リリース」

   し た

「デビュー・シングル」で

 

「大 ヒット・曲」に

「成・り」ました。

 

「鳥羽 一郎」は

「1,952 年・生まれ」で

「三重 県・鳥羽 市」

「出・身」の

 

「演 歌・歌手」

   です。

 

「同 じ・く」
「演 歌・歌手」の

「山川 豊」は

(「やまかわ ゆたか」)

 

「6 歳・年下」の

「実・弟」です。

 

「父 は・漁師」

「母 は・海女」の

           (「あま」)

「漁 師・一家」で

「育・ち」

 

「17 歳・から」

「5 年・間」

「遠 洋・漁業」の

「船 員 と・して」


パナマ」や

「インド 洋・まで」

「マグロ」

「カツオ」の

 

「捕・獲」に

「従・事」しました。

 

「海 が・荒れれ」ば

「命さえ 落としかね・ない」

「厳しい 環境の・中」で

「唯一の 心の・慰め」は

 

「船村 徹・作曲」の

(「ふなむら とおる」)

「別れの 一本杉」や

「なみだ 船」等を


「甲板 の・上」で

「歌う 事・だった」

   そうです。

 

「海 の・生活」を

「引 退・して」

「一・度」は

「板前 を・志し」

 

「調理 師・免許」を

「取・得」しました。

 

「し か・し」

「実 弟・山川 豊」の

「活・躍」に

「刺 激・され」


「27 歳の・時」に

「歌・手」を
「目 指・し」て

「上・京」し

 

「憧 れ・だった」

「作曲家・船村 徹」に
「弟 子・入り」
   しました。

 

「3年・間」の

「厳 し・い」

「修行 に・耐え」

「船村 徹・から」

 

「出 身・地」

「鳥 羽・市」に

「由 来・する」

「鳥羽 一郎」の

 

「芸・名」を

「名付 け・られ」

   しました。

 

「1,982・年」

「30 歳の・時」に

「リリース・した」

「ファースト・シングル」

 

「兄 弟 船」で

「メジャー・デビュー」

   しました。

 

「同・曲」は

「ロング・ヒット」し

「ミリオン・セラー」を

「記 録・し」

 

「各・種」
「新人 賞・レース」を

「総・ナメ」に

   し て

 

「発 売・から」

「3 年・後」の

「1,985・年」に

「念 願・だった」

 

「紅 白・歌合戦」に

「初・出場」しました。

 

「毎・年」

「テレビ・東京 系」で

「放 送・され」る

「正 月・恒例」の

 

「ドキュメンタリー」

「特 別・番組」

「青森 県・大間」の

「巨 大 マグロ戦争・では」

 

「番・組」の

「挿入歌 と・して」

「兄 弟 船」が

「流・れ」ます。

 

「代 表・曲」に

 

「兄 弟 船」

「北の 鴎唄」

(「カモメうた」)

「男の 港」等が

「有・り」ます。

 

「1,998・年」に

「リリース・した」

「60 th・シングル」

「龍 神」で

(「りゅう じん」)

 

「レコード 大賞・

   最優秀 歌唱賞」を

「受・賞」しました。

 

「歌唱 曲・には」

「全 国・津々浦々」の

「ご 当地・演歌」が

「多・く」

 

「延 べ・11」の

「道 府 県」に

「歌・碑」が
(「か・ひ」)

 

「建 立・され」て

(「こん りゅう」)

   います。

 

「現 在・70 歳」

   です が

 

「2,023 年・1 月」に

「129 th・シングル」

「されど 人生」を

「リリース・する」等

 

「現役 と・して」

「第・一線」で

「活躍 して・いる
   そうです。

 

「私・生活」
   で は

 

「1,987・年」

「35 歳の・時」に

「一般 人・女性」と

「結・婚」し

 

「ニ 男・一女」が

「誕 生・した」

   そうです。

 

「紅 白・歌合戦」

   に は

 

「1,985・年」の

「兄 弟 船」〜

「2,007・年」の

「兄 弟 船」まで

(「7 回・目」) 

 

「通 算・20 回」

「出・場」しました。

 

 

「鳥羽 一郎」

「兄 弟 船」

「作・詞」「星野 哲郎」

「作・曲」「船村 徹」

 

波の 谷間に 命の 花が

ふたつ 並んで 咲いて いる

兄弟船 は 親父の かたみ

型は 古いが しけには つよい

おれと 兄貴の ヨ 夢の 揺り籠 さ

                                 (「ゆりかご」)

 

陸に 上って 酒のむ ときは

(「おかに あがって」)

いつも はりあう 恋 仇

                     (「こい がたき」)

けれども 沖の 漁場に 着けば

                    (「りょうば」)

やけに 気の 合う 兄弟 鴎

                             (「カモメ」)

力 合わせて ヨ 網を 捲き あげる

                              (「まき」)

 

たった ひとり の おふくろ さん に

楽な 暮らしを させたく て

兄弟船 は 真冬の 海へ

雪の 簾を くぐって 進む

 (「すだれ」)

熱い この血は ヨ おやじ ゆずり だぜ

 

 

※「大船 に・乗る」

(「おおぶね に・のる」)

「大船 に・乗る」の

「意・味」は

「下・記」だ、そうです。

 

・「信 頼・出来る」

 「後ろ盾 を・得て」

 (「うしろだて」)

 「そ の・もの」に

 「安 心・して」

 

 「任せ ら・れる」と

 「い う・意味」の

 「慣 用・句」だ

    そうです。

 

「大船 に・乗る」の

「由・来」は

「下・記」だ、そうです。

 

・「大 船・とは」

 「言 葉・そのまま」に

 「大き な・船」と

 「い う・意味」で

 

 「大き な・船」は

 「小さな 船に・比べ」て

 「海や川 の・上」で

 「安定 して・いて」

 

 「転覆 等と・いった」

 「事故 の・危険性」も

 「きわめ て・低く」

 「成・り」ます。

 

 「大船に 乗る・とは」

 「大船  の・様」な

 「心 強い・後ろ盾」を

 「得・て」

 

 「全幅 の・信頼」で

 「そ の・もの」に

 「全・て」を

 「任せ る・事」が

 

 「由・来」の

 「慣 用・句」だ

    そうです。

 

「大船 に・乗る」の

「代 表・的」な

「使 用・例」は

「下・記」だ、そうです。

 

・「百 戦・錬磨」の

 (「ひゃく せん・れんま」)

 「上・司」が

 「転勤 して・きて」

 

 「部 下・一同」は

 「大船 に・乗った」

 「様」な

 「気 持・ち」だった。

 

・「学・校」の
 「成績 が・優秀」で

 「大 手・一流 企業」に

 「エリート・候補」と

   

 「期 待・され」て

 「就 職・した」

 「友人 の・将来」は

 「公 私・共々」に

 

 「大船 に・乗った」も

 「同・然」だ。

 

「大船 に・乗る」の

「類 義・語」を

「検 索・して」も

「ピン と・来」ません。

 

・「寄ら ば・大樹の陰」

   (「よら ば・たいじゅのかげ」)

 

・「身を 寄せる・なら」ば

 「小さな 木の下・より」も

 「大きい 木の・下」の

 「方 が・安全」で

 

 「雨・宿り」や
 「日差しを避ける・にも」

 「良 い・事」が

 「由・来」で

 

 「頼・り」に

 「す る・なら」ば

 「大きな 勢力の・ある」

 「者 の・方」が

 

 「安 心・出来」て

 「利益 も・ある」

 「事 を・例え」た

 「ことわざ」です。

 

「大船 に・乗る」の

「対 義・語」を

「検 索・して」も

「出 て・来」ません。

 

・「泥舟 に・乗る」

   (「どろぶね に・のる」)

 

・「泥・舟」は
 「童・話」
 「かちかち 山・にも」

 「登・場」します。

 

 「泥 舟・とは」

 「泥 を・固め」て

 「作っ た・舟」で

 「海 や・川」の

 

 「水分 を・吸う」と

 「崩れ て・しまい」

 「沈 没・して」

    しまいます。

 

 「泥舟に 乗る・とは」

 「非常 に・不安定」な

 「団体 や・人物」を

 「頼りに して・いて」

 

 「危険 な・状況」に

 「さらさ れて・いる」と

 「い う・意味」の

 「慣 用・句」です。

 

 「辺・り」が

 「妥・当」な

 「気」が、します。

 

 

「都 はるみ」は

(「みやこ はるみ」)

 

「涙の 連絡船」

   と、いう

「歌 を・歌い」ました。


「1,965・年」に

「リリース」

   し た

「11 th・シングル」で

 

「大 ヒット・曲」に

「成・り」ました。

 

「都 はるみ」は

「1,948 年・生まれ」で

「京都 府・京都 市」

「出・身」の

 

「演 歌・歌手」

「女・優」です。

 

「芸 能・好き」な

「母・親」は

「はるみ」が

「5 歳の・時」に

 

「日 本・舞踊」と

「クラシック・

   バレエ」を
「習 わ・せ」

 

「6 歳の・時」に

「母 親・自ら」が

「浪・曲」を

「教・え」ました。

 

「1,963・年」

「私・立」

「洛陽 女子・高校」

「1 年生の・時」に

 

コロムビア・全国
   民謡・コンクール」で

「優・勝」し

「歌手 に・なります!」と

「言 い・残し」て

 

「東京 に・在する」

「私・立」

青葉台 学園・高校」に

「転・校」しました。

 

「1,963・年」

「15 歳の・時」に

「コロンビア・レコード」
「主・催」の

 

「全国 歌謡・

   コンクール」で

「グランプリ」に

「輝・き」ました。

 

「1,964・年」
「高 校・2 年生」で

「16 歳 の・時」に

「リリース・した」

 

「ファースト・シングル」

「困るの ことヨ」で

「歌 手・デビュー」

   しました。

 

「同・曲」は

「ま ず・まず」の

「スマッシュ・ヒット」に

「成・り」ました。

 

「代 表・曲」に

 

「北の宿 から」

「涙の 連絡船」

「大阪 しぐれ」等が

「有・り」ます。

 

「同・年」に

「リリース」

   し た

「サード・シングル」

 

「アンコ 椿は 恋の花」が

「ミリオン・セラー」の

「大 ヒット・曲」に

「成・り」

 

「レコード・大賞・

   新人 賞」を

「受・賞」し

「一躍 に・して」

 

「人・気」
「演 歌・歌手」の

「仲 間・入り」を

「果 た・し」ました。

 

「はるみ・節」と
            (「ぶし」)

「呼 ば・れ」た

「うな り・声」の  

「様」な

 

「力・強い」

「こぶし・回し」や

「波 打つ・様」な

「深・い」

 

「ビブラート」で

「歌 い・上げ」

「昭 和・後期」を
「代 表・する」

 

「国 民・的」

「演 歌・歌手」の

「一 人 と・して」

「数 多・く」の

 

「ヒット・曲」を

「広 く・世」に

「送 り・出し」

   ました。

 

「アンコ 椿は 恋の花」は

「竹脇 無我」と

(「たけわき むが」)

「香山 美子」の

(「かやま よしこ」)

 

「W・主演」で

「映画 化・され」

「はるみ」も

「妹役 で・出演」し

 

「女 優・デビュー」
   しました。

 

「1,965・年」に

「リリース」

   し た

「11 th・シングル」

 

「涙の 連絡船」が

「ミリオン・セラー」の

「大 ヒット・曲」に

「成・り」

 

「紅 白・歌合戦」に

「初・出場」しました。

 

「1976・年」に

「リリース・した」

「68 th・シングル」

「北の宿 から」が

 

「シングル・曲」

「歴 代・91 位」の

「145・万枚」を

「セールス」し

 

「見・事」に

「日本 レコード・大賞」の

「栄・冠」に

「輝・き」ました。

 

「1,984 年・3 月」

「人気 実力・共」に

「絶 頂・だった」

「36 歳の・時」に

 

「1,978・年」に

キャンディーズ」が

「残 し・た」

「伝 説・的」な

 

「解散 宣言・文句」

「普通の 女の子 に

   戻りたい」と

「似 た・言葉」

 

「普通の おばさん に

   なりたい」の

「言葉 を・残し」て

「突・然」に

 

「芸能 界・から」の

「引退 を・宣言」し

「同 年・末」の

「紅 白・出場」を


「最・後」に

「引・退」しました。

 

「1,989・年」

「大・歌手」
「美空 ひばり」の

「死去 を・機」に


「5 年・振り」に

「芸 能・界」に

「復・帰」

   しました。

 

「1,980・年」に

「リリース」

   し た

「82 th・シングル」

 

「大阪 しぐれ」で

「レコード・大賞・
   最優秀 歌唱賞」を

「受・賞」しました。

 

「日本 レコード・大賞」で

「新 人・賞」

「最優秀・歌唱賞」

「大・賞」の

 

「三・冠」を

(「さん・かん」)

「達 成・した」

「歌・手」は


「都 はるみ」

「北島 三郎」

「細川 たかし」

「近藤 真彦」

 

「氷川 きよし」の

「5 人・しか」

   いません。

 

「はるみ」が

「歌っ・た」

「アンコ 椿は 恋の花」

「涙の 連絡船」

 

「北の宿 から」

「大阪 しぐれ」

「浪花 恋しぐれ」の

「5・曲」が

 

「演歌歌手 と・して」は

「異・例」の

「ミリオン・セラー」を

「記・録」しました。

 

「2,005・年」に
「芸術 選奨・
(「げいじゅつ せんしょう」)

   文部 科学 大臣賞」を

「受・賞」しました。

 

「2,010・年」に

「紫 綬・褒章」を
(「し じゅ・ほうしょう」)

「受・賞」しました。

 

「現 在・74 歳」

   です が

 

「2,018・年」に

「デビュー・

   55 周年」を

「記 念・して」

 

「野 外・コンサート」の

「D V D」の

「リリース」を

「最・後」に

 

「芸 能・界」の

「第・一線」を

「引 退・した」

   そうです。

 

「私・生活」
   で は

 

「1,978・年」

「30 歳の・時」に

「音 楽・

   プロヂューサー」の

 

「朝月 広臣」と

「結 婚・する」も

「1,982・年」に

「離・婚」しました。

 

「二人の・間」に

「子供 は・いない」

  そうです。

 

「紅 白・歌合戦」

   に は

 

「1,965・年」の

「涙の 連絡船」〜

「1,997・年」の

「海峡の 宿」まで

 

「通 算・29 回」

「出・場」しました。

 

「都 はるみ」

「涙の 連絡船」

「作・詞」「関沢 新一」

「作・曲」「市川 昭介」

 

いつも 群れ飛ぶ かもめ さえ

とうに 忘れた 恋 なのに

今夜 も 汽笛 が

汽笛 が 汽笛 が・・
独りぼっち で 泣いて いる

忘れられ ない 私が ばか ね

連絡船 の 着く 港

 

きっと くるよ の 気休め は

旅の お方の 口ぐせ か

今夜 も 汽笛 が

汽笛 が 汽笛 が・・
風の 便りを 待てと 言う

たった 一夜の 思い出 なのに

      (「ひとよ」)

連絡船 の 着く 港

 

船は いつか は 帰る けど

待てど 戻らぬ 人も あろ

今夜 も 汽笛 が

汽笛 が 汽笛 が・・
暗い 波間で 泣きじゃくる

泣けば ちるちる 涙の つぶ が

連絡船 の 着く 港

 

 

「乗り 掛かった・船」を

「英・語」で

 

 「ship on board」と

 

 (「乗り 掛かった・船」)

 

 「言・う」そうです。