何気なく使っている言葉の意味

「朴・念.・仁」

(「ぼく・ねん・じん」)

 

「皆さん」は

「朴・念・仁」

   と、いう

 

「慣 用・句」を
「使っ た・事」は

「有・り」ませんか?

 

「朴・念・仁」の

「意・味」は

「下・記」だ、そうです。

 

・「人 の・性格」を

 「表 す・表現」で

 「無・口」で

 「無・愛想」や

 

 「自・分」に

 「向け ら・れる」

 「女性・から」の

 「恋 愛・感情」に

 

 「疎 い・人物」

 (「うと い」)

    と、いう

 「意・味」で

 

 「男 性・のみ」に

 「対 し・て」

 「使 わ・れ」る

 「表・現」だ、そうです。

 

 「下・記」に

 「記 述・する」

 「唐・変・木」と

 (「とう・へん・ぼく」)

 「異 な・り」

 

 「朴・念・仁」は

 「悪 口・では」

 「有・り」ません。

 

「朴・念・仁」の

「由・来」は

「下・記」だ、そうです。

 

・「朴」と は

 (「ぼく」)

 「素・朴」で

 「飾り気 が・無い」

 「事」で

 

 「念」と は

 (「ねん」)

 「思い や・考え」の

 「事」で

 

 「仁」と は

 (「じん」)

 「人・物」の

 「事」で

 

 「朴・念・仁」とは

 「飾り気 が・無く」

 「朴訥 な・性格」で
 (「ぼくとつ」)

 「素直 な・考え」の

 

 「持 ち・主」

    と、いう

 「意・味」から

 「転 じ・て」

 

 「現・在」

 「使われ て・いる」

 「意・味」に
 「成っ た・事」が

 

 「由・来」と

 「言われ て・いる」

    そうです。

 

「朴・念・仁」の

「代 表・的」な

「使 用・例」は

「下・記」だ、そうです。

 

・「彼」は

 「飲 み・会」に

 「参 加・して」も

 「誰とも・話さ」ず

 

 「返・杯」も

 「しよう と・しない」

 「朴・念・仁」な

 「男」だ。

 

・「残念 な・事」に

 「朴・念・仁」な

 「彼」には

 「おそらく」

 

 「裏・腹」な

 「女・心」など

 「理 解・出来ない」

    だろう。

 

「朴・念・仁」の

「類 義・語」は

「下・記」だ、そうです。

 

・「意地 っ・張り」
   (「いじ っ・ぱり」)

 

・「自分 の・意見」を
 「頑・な」に
 (「かたく・な」)

 「変 え・ない」

 「事」で

 

 「良く も・悪く」も

 「自分 の・芯」が

               (「しん」)

 「ブレ・ない」
    と、いう

 

 「意・味」だ
    そうです。

 

 「朴・念・仁」と

 「異 な・り」

 「女・性」に

 「対 し・て」も

 

 「使 え・る」

 「表・現」です。

 

「朴・念・仁」の

「対 義・語」は

「下・記」だ、そうです。

 

・「物腰 が・柔らかい」
   (「ものごし が・やわかい」)

 

・「物・腰」とは

 「周囲 の・人」に

 「対 す・る」

 

 「言 葉・使い」や

 「態・度」の
 「事」で

 

 「柔ら か・い」とは

 「穏やか で・優しい」

 「様・子」の

 「事」で

 

 「物腰 が・柔らかい」とは

 「他 人・へ」の

 「言 葉・使い」や

 「態・度」が

 

 「穏 や・か」で

 「優 し・い」

    と、いう

 「意・味」で

 

 「基 本・的」

    に は

 「ほ め・言葉」

    と、して

 

 「使 わ・れる」

 「事 が・多い」

 「表・現」です。

 

 

「福山 雅治」は

(「ふくやま まさはる」)

 

「おじいちゃん みたい に

   無口な 強さ で」の

「歌詞 が・ある」

 

「家族に なろうよ」

   と、いう

「歌 を・歌い」ました。

 

「2,011・年」に

「リリース」

   し た

「27 th・シングル」で

 

「大 ヒット・曲」に

「成・り」ました。

 

「福山 雅治」は

「1,969 年 ・生まれ」で

「長崎 県・長崎 市」

「出・身」の

 

「俳・優」

「シンガーソング・
   ライター」

「作 詞・家」

 

「作 曲・家」

「ラジオ・DJ」

「写 真・家」

「タレント」です。

 

「小 学・1 年生」の

「時」に

「ギター 」を

「弾 き・始め」て

 

「中 学・2 年生」の

「時」に

「バンド」を

「結・成」しました。

 

「県・立」

「長崎 工業・高校」
「情報 技術・科」を

「卒 業・後」

 

「地・元」の
「電子 計測器・会社」に

「就 職・する」も

「5ヶ月間 で・退職」し

 

「歌・手」を

「目指 し・て」

「単 身・にて」

「上・京」しました。

 

「アルバイト・生活」を

「送 る・中」で

アミューズ」の

「オーディ・ション」に

 

「合・格」し

「芸能 界・入り」

   しました。


「1,990・年」

「19 歳の・時」に

「映・画」
「ほん の・5 g」で

 

「俳 優・デビュー」

   しました。

 

「そ の・後」
「俳・優」と

   して は

 

「1,991・年」に

「TBSテレビ・系」で

「放 送・され」た

「テレビ・ドラマ」

 

「あしたが あるから」に

「出・演」しました。

 

「こ れ・以前」
   に も

「テレビ・ドラマ 」

   へ の

 

「出・演」を

「要請さ れ・ました」が
「あ く・まで 」も

「ミュージ・シャン」に

 

「成 る・事」が

「夢・だった」の で

「出 演・依頼」を

「辞・退」しました。

 

「1,992・年」に

「TBS・テレビ 系」で

「放 送・され」た

「テレビ・ドラマ」

 

「愛は どうだ」で
「初」の

「主・演」を

「演・じ」ました。

 

「1,993・年」に
「フジテレビ・系」で

「放 送・され」た

「テレビ・ドラマ」

 

「ひとつ 屋根の 下」で

「主・演」し

「平 均・視聴率」

「28・4 %」

 

「最 高・視聴率」

「37・8 %」の
「大  ヒット・作」に

「成・り」ました。

 

「2,010・年」に

「N H K」で

「放 送・され」た

「大 河・ドラマ」

 

「龍馬 伝」に

「於 い・て」

「坂本 龍馬」を

「演・じ」

 

「こ の・演技」が

「高 評価・され」

「ギャラクシー・ 賞」を

「受・賞」しました。

 

「2,013・年」に

「是枝 裕和」

「監・督」の

「映 画・作品」

 

「そして 父になる」で
「初」の

「父 親・役」で

「主・演」し

 

「カンヌ 国際映画祭・

   審査委員 賞」を

「受・賞」しました。

 

「歌 手・活動」と

   して は

 

「1,990・年」に
「リリース」

   し た

「ファースト・シングル」

 

「追憶の 雨」で

「歌 手・デビュー」
   しました。

 

「優し く・心に 響く」

「歌・詞」と

「癒しを・与える」

「歌・声」は

 

「聞い て・いて」

「心 地・良く」

「多くの・人」を

「魅・了」しました

 

「代 表・曲」に

 

「家族に なろうよ」
「桜 坂」

「squall」等が

「有・り」ます。

 

「1,993・年」に

「リリース」

   し た

「5 th・アルバム」

 

「Calling」が

「自身・初」の

オリコン・1 位」に

「成・り」ました。

 

「1,994・年」に

「リリース」した

「9 th・シングル」

「it's only love」が

 

「シングル」で

「自 身・初」の

オリコン・1位」に

「成・り」ました。

 

「1,995・年」に

「リリース」した
「10 rh・シングル」

「HERO」が

 

「自 身・初」の

「ミリオン・セラー」で

オリコン・1位」に
「成・り」ました。

 

「2,000・年」に

「デビュー・10 周年」を

「記 念・して」

「15 th・シングル」

 

「桜 坂」を

「リリース」しました。

 

「同・曲」は
「220・万枚」を

「売 り・上げ」る

「歴 代・13 位」の

 

「ダブル・ミリオン」に

「成・り」

「東京 都・大田 区」に

「有・る」

 

「桜・坂」に は
「多・く」の

「観 光・客」が

「訪・れ」

 

「一・躍」
「全 国・区」の

「観 光・スポット」に

「成・り」ました。

 

「2,010・年」に
「デビュー・20 周年」を

「記 念・して」

「リリース」した

 

「4 th・ベスト アルバム」

「THE BEST BANG!」が

オリコン・1位」に

「成・り」なりました。

 

「2,011・年」に

「リリース」した

「27 th・シングル」

家族になろうよ」が

 

「内田 裕也」

「樹木 希林」

「夫妻 が・出演」し

「話題 に・なった」

 

「テレビ・東京 系」で

「放 送・され」た

「テレビ・ドラマ」

「家族に なろうよ」の

 

「イメージ・ソング」に

「起 用・され」て

オリコン・1 位」の

「大 ヒット・曲」に

「成・り」

 

「同・曲」で

「紅 白・歌合戦」に

「2・回」

「出・場」しました。

 

「2,017・年」に

「凡・そ」

(「およ・そ」)

「2 年・振り」に
「リリース」し た

 

「31 th・シングル」

「聖・域」が

オリコン・1位」に
「成・り」

 

「自身 が・持つ」

「男 性・ソロ 歌手」の

「歴 代・1位」

   と、なる

 

オリコン・1位」

「獲得 作品・数」を

「18・作品」へ

「記録 を・伸ばし」ました。

 

「2,020 年・12 月」に

「デビュー・30 周年」を

「記 念・して」

「リリース」し た

 

「12 th・アルバム」

AKIRA」が

オリコン・1 位」に

「成・り」ました。

 

「これ に・より」

「20 歳代 〜 50 歳代」の

「年 齢・4 年代」

「連・続」で

 

オリコン・アルバム」

「1・位」を
「獲・得」し

「自身 が・持つ」

 

「男・性」の

「シングル・

   アーティスト」の

「中」で

 

「シングル」

「及・び」

「アルバム」の

「総・売上 枚数」

 

「最 高・記録」を
「2,430・万枚」

   へ と

「伸 ば・し」ました。

 

「私・生活」

   で は

 

「2,015・年」

「46 歳の・時」に

「13 歳・年下」の

 

「女・優」

「タレント」の

「吹石 一恵」と

「結・婚」し

 

「2,016・年」に

「長・男」が

「誕・生」しました。

 

「紅 白・歌合戦」

   へ は

 

「1,993・年」の

「MELODY」〜

「2,021・年」の

「道 標」まで

(「2 回・目」)

 

「通 算・14 回」

「出 場・中」です。

 

 

「福山 雅治」

「家族に なろうよ」

「作・詞」「作・曲」

「福山 雅治」

 

「100 年 経っても 好きで いてね」

みんなの 前で 困らせ たり

それでも 隣で 笑って くれて

選んで くれて ありがとう

 

どれほど 深く 信じ合って も

わからない ことも ある でしょう

その孤独と 寄り添い

生きる こと が

「愛する」と いう

ことかも しれない から

 

いつか お父さん みたいに

大きな 背中 で

いつか お母さん みたいに

静かな 優しさ で

どんなこと も 超えて ゆける

家族に なろう よ

 

小さな頃 は 身体が 弱く て

すぐに 泣いて 甘えてた の

いつも 自分のこと ばかり 精一杯で

親孝行 なんて 出来てない けど

 

明日の わたし は

それほど 変わらないと しても

一歩ずつ 与えられる 人から

与える 人へ かわって ゆけた なら

 

いつか おじいちゃん みたいに

無口な 強さ で

いつか おばあちゃん みたいに

可愛い 笑顔 で

あなたと なら 生きてゆける

そんな ふたりに なろう よ

 

いつか あなたの 笑顔 に

よく似た 男の子 と

いつか わたしと おなじ

泣き虫 な 女の子 と

どんな ことも 越えて ゆける

家族に なろう よ

 

あなたと なら 生きて ゆける

しあわせに なろう よ

 

 

※「唐・変・木」

  (「とう・へん・ぼく」)

 

「唐・変・木」の

「意・味」は

「下・記」だ、そうです。

 

・「気の 利か・ない」

 「人・物」や

 「間 の・抜け」た

 「人・物」

 

 「わから ず・屋」な

 「人・物」

    と、いう

 「意・味」で

 

 「相・手」を
 「罵・る」
 「のの し・る」)

 「時」や

 

 「か ら・かう」

 「時」に

 「使 う・言葉」だ

    そうです。

 

「唐・変・木」の

「由・来」は

「下・記」だ、そうです。

 

・「遣 唐・使」が

 (「けん とう・し」)

 「中・国」か ら

 「持 ち・帰った」

 「木」が

 

 「変な形 を・した」

 「木」だっ た

 「事」が

 「由・来」だ、そうです。

 

「唐・変・木」の

「代 表・的」な

「使 用・例」は

「下・記」だ、そうです。

 

・「彼」は

 「子供 の・頃」

 「両 親・から」

 「唐・変・木」と

 

 「怒ら れ・ながら」

 「育っ た・そうだ」が

 「大人 に・なって」も

 「何・ら」


 「変わり が・なく」

 「全・く」

 「進・歩」が

 「無」い。


・「彼」は

 「ひねくれ て・いて」

 「唐・変・木」と

 「呼ばれ て・いる」が

 

 「わ ざ・と」

 「振舞って・いる」と

  「まこと し・やか」に

 「囁 か・れて」いる。
 (「ささやか」)

 

「唐・変・木」の

「類 義・語」は

「下・記」だ、そうです。

 

・「陸 で・なし」

   (「ろくで・なし」)

 

 「陸」と は

 (「ろく」)

 「真 っ・直ぐ」や

 「水・平」の

 「事」で

 

 「ろくで・なし」は

 「これ を・否定」

    し た

 「表・現」で

 

 「性・格」が

 「ひねくれ て・いる」や

 「怠け て・いて」

 「役 に・立たない」

 

 「人・物」

    と、いう

 「意・味」だ
      そうです。

 

 「ろ く」の

 「付 く・言葉」

    と、して

 「他」に

 

 「ろくでも・ない」や

 「ろくなもん じゃ・ない」

 「等」が

 「有・り」ます。

 

「唐・変・木」の

「対 義・語」を

「検 索・して」も

「出 て・来」ません。

 

・「従・順」

   (「じゅう・じゅん」)

 

・「性格 や・態度」が

 「おだ や・か」で

 「おとな・しく」て

 「素・直」で


 「人 の・言う こと」に

 「逆ら わ・ない」

    と、いう

 「意・味」です。

 

 「辺・り」が

 「妥・当」な

 「気」が、します。

 

 

「越路 吹雪」は

(「こしじ ふぶき」)

 

「ろくで なし」

   と、いう

「歌 を・歌い」ました。

 

「1,965・年」に

「リリース」

   し た

「7 th・シングル」で

 

「大・ヒット」し

「レコード・大賞・
   歌唱 賞」を

「受・賞」しました。

 

「越路 吹雪」は

「1,924 年・生まれ」で

「東京 都・千代田 区」

「出・身」の

 

「舞 台・女優」

シャンソン・歌手」

   でした。

 

「県・立」
「長野県 飯山・高校」
「1 年生 の・時」に

「中・退」し


「父親 の・勧め」で

「宝塚 音楽・学校」に

「入・学」しました。

 

「清く・正しく・美しく」が

「モットー」の

「同・校」に

「於 い・て」

 

「喫・煙」や

「門 限・破り」

「等」の

「校 則・違反」で

 

「不 良・少女」の

「あ だ・名」を

「付け ら・れ」ました。

 

「1,939・年」

「15 歳の・時」に

「宝 塚・歌劇団

「月 組・公演」

 

「宝塚 花・物語」で

「初・舞台」を
「踏・み」ました。

 

「1,944・年」

「20 歳の・時」に

「戦況 の・悪化」で

「劇場 が・閉鎖」し

 

「ベテラン」の

「退団者 が・続出」し

「吹雪 を・筆頭」に

「若手 が・台頭」し

 

「不良っ ぽ・さ」を
「漂 わ・せる」
「吹 雪」の

「色・気」に

 

「熱烈 な・ファン」が

「付・き」
「花・組」の
「トップ・スター」に

「の し・上り」ました。

 

「終 戦・後」に

「劇場 は・再開」し

「1,946・年」の

「花 組・公演」で

 

「吹 雪」が

「主 演・した」

ミモザ の 花」が

「好評 を・博し」

 

「楽・曲」は
「現・在」も
「宝 塚・歌劇団」の

「代 表・曲」の

 

「一・曲」

   と、して

「歌 い・継がれ」て

「い る」そうです。

 

「同・舞台」に

   よって

「吹 雪」は

「国・産」の

 

「ミュージカル」

「女・優」の

「第 一・号」に

「成・り」ました。

 

「1,950・年」

「26 歳の・時」に

「宝・塚」を

「退・団」しました。

 

「1,951・年」に

「リリース」

   し た

「ファースト・シングル」

 

「ビギン・ザ・ビギン」で

「歌 手・デビュー」し

「紅 白・歌合戦」に

「初・出場」し

 

シャンソン の・女王」と

「呼 ば・れ」ました

 

「代 表・曲」に

 

「愛の 讃歌」

「ラストダンスは 私に」

「ろくでなし」等 が

「有・り」ます。

 

「1,980 年・7 月」

「胃 の・激痛」を

「訴・え」て
「緊 急・入院」し

 

「胃・腸」の

「5分 の・4」を

「切 除・する」

「大 手・術」を

「受・け」ました。

 

「病・名」は
「胃・潰瘍」と

「い・かいよう」)

「告げら れ・ました」が

「末期 の・胃ガン」でした。

 

「同 年・11 月」に

「56 歳の・若さ」で

「急・逝」しました。

(「きゅう・せい」)

 

「私・生活」

   で は

 

「1,959・年」

「35 歳の・時」に

「5 才・年下」で

「指 揮・者」

 

「作 曲・家」

「ピアニスト」の

「内藤 法美」と

「結・婚」しました。

「二・人」は

「おしどり・夫婦」と

「呼ば れ・ました」が

「子供 は・いない」

    そうです

 

「紅 白・歌合戦」

   へ は


「1,952・年」の

「ビギン・ザ・ビギン」〜

「1,969・年」の

「愛の 讃歌」まで

 

「通 算・15 回」

「出・場」しました。

 

 

「越路 吹雪」

「ろくで なし」

「作・詞」「岩谷 時子」

「作・曲」「S.Adamo」

 

古い この 酒場 で 

たくさん 飲んだ から

古い 思い出 は 

ボヤケ て きた らしい

私は 恋人に 捨てられて しまった

人が この私を

ふだつきと 云うから

              (「いう」)

ろくでなし ろくでなし

なんて ひどい アーウィ !

云い かた

 

平日 だけど はれ着を 着たの よ

人形を だいて 日暮に 帰ったり

 

おかみさん 達は 

白い目で にらんだ

まるで この 私を 

ドロボー みたい に

ろくでなし ろくでなし

なんて ひどい アーウィ !

云い かた

 

コーヒーが わいた ら 

かげ口を 聞かれ て

それでも この街 が

一番 きれいだ ワ

とても 好きだ けど 

お別れよ サヨナラ

鳥の さえずり に 

送られて 出て ゆこう

パパーラ パラ パパーラ パラ

パパーラ パパラ ラパパラ

パパーラ パラ パパーラ パラ

パパーラ パパラ ラパパラ

 

 

「朴・念・仁」を

「英・語」で

 

 「unsociable」と

 

 (「社交的 で・ない」)

 

 「言・う」そうです。