何気なく使っている言葉の意味

「胸 が・ときめく」

(「むね が・ときめく」)

 

「皆さん」は

「胸 が・ときめく」

   と、いう

 

「慣 用・句」を

「使 った・事」は

「あ・り」ませんか?

 

「胸 が・ときめく」の

「意・味」は

「下・記」だ、そうです。

 

・「 喜びや 期待・等」の

 「強 い・感情」で

 「胸が ドキドキ・する」や

 「胸 の・鼓動」が

 

 「高 鳴る・事」と

 「い う・意味」の

 「ポジティブ」な

 「ニュアンス」を

 

 「持・つ」

 「慣 用・句」だ

    そうです。

 

「胸 が・ときめく」の

「由・来」は

「下・記」だ、そうです。

 

・「と き・めく」の
 「由 来・語源」は

 「諸 説・有る」

    そうです が

 

 「動・悸」に

 (「ど う・き」)

 「その 様に・見える」
 「意・味」の
 「め く」が

 

 「付 いた・言葉」と

 「い う・説」が

 「有・力」だ

    そうです。

 

「胸 が・ときめく」の

「代 表・的」な

「使 用・例」は

「下・記」だ、そうです。


・「友・人」は
 「明日 に・なれ」ば

 「彼女 に・会える」と

 「思・う」と

 

 「胸 が・ときめい」て

 「な か・なか」

 「寝 付け・なかった」

    そうだ。

 

・「彼女 の・話」は

 「どれ も・これも」

 「聞 く・人」の

 「胸 が・ときめき」


 「ワクワク・する」

 「魅 力・的」な

 「体 験・談」

    だった。

 

「胸 が・ときめく」の

「類 義・語」は

「下・記」だ、そうです。

 

・「胸 が・躍る」

   (「むね が・おどる」)

 

・「喜び や・期待」

 「等」から

 「気 持・ち」が

 「ウキウキ・する」や

 

 「ドキドキ・する」と

 「い う・意味」の

 「慣 用・句」だ

    そうです。

 

「胸 が・ときめく」の

「対 義・語」を

「検 索・して」も

「出 て・来」ません。

 

・「意 気・消沈」

   (「い き・しょうちん」)

 

・「意 気・とは」

 「気力 や・気概」

    と、いう

 「意・味」で

 

 「消 沈・とは」

 「萎 えて・沈む」

 (「な えて」)

    と、いう

 「意・味」で


 「意気 消沈・とは」

 「元気 を・なくし」て

 「気・分」が
 「ションボリ・する」と

 

 「い う・意味」の

 「四 字・熟語」

    です。

 

 「辺・り」が

 「妥・当」な
 「気」が、します。

 

 

「尾崎 紀世彦」は

(「おざき きよひこ」)

 

「この胸の ときめき を」

   と、いう

「歌 を・歌い」ました。

 

「2003・年」に

「リリース」

   し た

「8 th・ベスト アルバム」

 

「GOLDEN ⭐︎ BEST」に

「収 録・され」て

「大 ヒット・作」に

「成・り」ました。

 

「尾崎 紀世彦」は

「1943 年・生まれ」で

「神奈川 県・茅ヶ崎 市」

「出・身」の

 

「ポップス・歌手」で

「ダイナミック」で

「パワフル」な

「歌 唱・力」と

 

「立・派」な

「ヒゲ と・モミアゲ」が

「トレード・マーク」

   でした。

 

「父方 の・祖父」は

「イギリス・人」で

「日・英」の

「クオーター」でした。

 

茅ヶ崎 市立・第一 中学校」を

「卒 業・後」に

「YMCA 国際 ホテル・学校」に

「進・学」しました。

 

「13 歳の・時」に

クラシック・バレエ」の

「ダンサー・だった」

「父」に

 

ウクレレ」を

「買 って・もらい」

「同級 生・6 人」で

「ハワイアン・バンド」を

 

「結・成」し

「箱・根」
「ホテル・小涌園」の

「オーディション」に

 

「合・格」し

「17 歳の・時」に

セミ プロ・デビュー」

   しました。

 

「1967・年」

「24 歳の・時」に

「コーラス・グループ」

ザ・ワンダース」を

 

「結・成」し

「ウルトラ・セブン」

「等」の

「テレビ・主題歌」を

 

「演 奏・して」

   いました。

 

「1970・年」

「27 歳の・時」に

「リリース・した」

「ファースト・シングル」

 

「別れの 夜明け」で

「ソ ロ・デビュー」し

「ダイナミック」で

「パワフル」な

 

「歌 唱・法」が

「視聴者 の・間」で

「評・判」に

「成・り」ました。

 

「代 表・曲」に

 

「また 逢う日 まで」

「この胸の ときめきを」

「愛する 人は ひとり」等が

「有・り」ます。

 

「1971・年」に

「リリース・した」

「セカンド・シングル」

「また 逢う日 まで」が

 

オリコン・1 位」で

「ミリオン・セラー」の

「大 ヒット・曲」に

「成・り」

 

「日 本・レコード・大賞」と

「日本 歌謡・大賞」の

「ダブル・受賞」の

「栄冠 に・輝き」

 

「紅 白・歌合戦」に

「初・出場」し

「白 組・トップバッター」を

「務・め」ました。

 

「そ の・後」も

「さよなら を もう一度」

「雪が 降る」

愛する人 は ひとり」等 

 

「数・多く」の

「ヒット・曲」を

「世」に

「送 り・出し」ました。

 

「2011 年・4 月」

   よ り

「入・退院」を

「繰り返 し・ました」が

 

「2012 年・5 月」

「都内 の・病院」で

「肝 臓・ガン」の

「診 断・にて」

 

「長・男」に

「看 取・られ」
(「み と・られ」)

   なが ら


「69・歳」で

「永・眠」
   しました。

 

「同・年」に

「生前の 実績を・称え」て

「日本 作曲家・協会」

   よ リ

 

「レコード・大賞・

   特別 功労賞」が

「授 与・され」

   ました。

 

「私・生活」

   で は

 

「1973・年」

「30 歳の・時」に

アメリカ・人」の

「一般人・女性」と

 

「結・婚」し

「第 一子・長男」と

「第 二子・長女」が

「誕 生・する」も

 

「1991・年」に

「離・婚」

   しました。

 

「同・年」に

「日 本・人」の

「一般 人・女性」と

「再・婚」し

 

「1993・年」に

「長・女」が

「誕 生・する」も

「そ の・後」

 

「夫 婦・仲」が

「険悪 に・なり」

「3・年間」の

「裁判 を・経て」

 

「離・婚」

   しました。

 

「紅 白・歌合戦」

   に は

 

「1971・年」の

「また 逢う日 まで」〜

「1990・年」の

ゴッドファーザー

   愛の テーマ」まで

 

「通 算・3 回」

「出・場」しました。

 

 

「尾崎 紀世彦」

「この胸の ときめきを」

「作・詞」:「PALLAVICINI VITO」

「作・曲」:「DONAGGIO GIUSEPPE」

 

夜毎 ふたり は ここに いるけど

(「よごと」)
君の 瞳は ひそか に

言いたいの だろう
こんな こと なら 別れよう と

 

君なし には 生きて いけない
ひとり で どうして 暮す のさ
君は 僕の もの だ もの
別れて 暮せる か

 

聞いて おくれ よ 胸の ときめき
お願い だから いて おくれ よ

 

君なし には 生きて いけない
ひとり で どうして 暮す のさ
Believe me, believe me

 

You don't have to say

you love me
Just be close at hand
You don't have to stay forever
I will understand
Believe me, believe me,

believe me

 

 

※「胸襟 を・開く」

  (「きょうきん を・ひらく」)


「胸襟 を・開く」の

「意・味」は

「下・記」だ、そうです。

 

・「心」に

 「思 って・いる」

 「事」を

 「隠し 立て・しない」で


 「自分の 心を・開い」て

 「相・手」に

 「す っ・かり」

 「打 ち・明ける」

 

 「正直 に・話す」と
 「い う・意味」の
 「ことわざ」だ

    そうです。


「胸襟 を・開く」の

「由・来」は

「下・記」だ、そうです。

 

・「胸 襟・とは」
 「胸と 襟 ・から」

       (「えり」)

 「転 ん・じ」て

 

 「心 の・中」
    と、いう

 「意・味」だ

    そうです。

 

「胸襟 を・開く」の

「代 表・的」な

「使 用・例」は

「下・記」だ、そうです。

 

・「彼 と・彼女」は

 「何」の

 「隠し立て も・せず」に

 「胸襟 を・開い」て

 

 「語 り・合える」

 「良・き」

 「パートナー」

    だった。

 

・「友人 の・元」を
 「訪 れる・人々」は

 「初・め」は

 「警戒 する・もの」の

 

 「最・後」は

 「胸襟 を・開く」
 「事」に

 「成・る」ようだ。

 

「胸襟 を・開く」の

「類 義・語」は

「下・記」だ、そうです。

 

・「腹 を・割る」

   (「はら を・わる」)

 

・「腹・とは」

 「考えて いる・事」や

 「心中 や・本心」と

 「い う・意味」で

 

 「腹を 割る・とは」

 「本・心」を

 「打 ち・明ける」や

 「包 み・隠さず」に

 

 「心 の・中」を

 「全て さらけ・出す」

    と、いう

 「意・味」の

 

 「慣 用・句」だ

    そうです。


「胸襟 を・開く」の

「対 義・語」は

「下・記」だ、そうです。

 

・「胸 三寸に・納める」

   (「むね さんずんに・
       おさめる」)


・「胸 三寸・とは」

 「胸 の・中」や

 「心 の・中」と

 「い う・意味」で


 「言い たい・事」が

 「有 っ・て」も

 「おくび にも・出さず」に

 「誰にも 言わ・ない」で

 

 「自分の 心の・中」に

 「しまっ て・おく」

    と、いう

 「意・味」の

 

 「慣 用・句」だ

    そうです。

 

 

研ナオコ」は

(「けん なおこ」)

 

「こっそり あたし に

   打ち明けた 時」の

「歌詞 が・ある」

 

「愚 図」

(「ぐ ず」)

   と、いう

「歌 を・歌い」ました。

 

「1975・年」に

「リリース」

   し た

「9 th・シングル」で

 

「大 ヒット・曲」に

「成・り」ました。

 

「研 ナオコ」は

「1953 年・生まれ」で

「静岡 県・伊豆 市」

「出・身」の

 

「歌・手」

「女・優」

「コメディ・アンヌ」

(「喜 劇・女優」) 
   です。

 

「1967・年」

「14 歳の・時」に

「ちびっこ・のど自慢」で

「準・優勝」し

 

「歌・手」を
「目 指・す」
「様」に

「成・り」ました。

 

「1970・年」に

「県・立」

「三島南 高等・学校」を
「中・退」し

 

「歌手 を・目指し」て

「単 身・にて」

「上・京」し

「宝 塚・劇場」の


「エレベーター・ガール」の

「アルバイト と・して」

「勤務 し・ながら」

「デビュー の・チャンス」を

 

「ひ た・すら」に

「待・ち」ました。

 

「ナオコ 節・とも」

「称・され」る

「アンニュイ」な

(「けだるい」)

「歌・声」と

 

「歌 唱・法」で

「1970 年代・中盤」〜

「1980 年代・中盤」

   に、かけて

 

「数・々」の
「ヒット ・曲」を

「世」に

「送 り・出し」ました。

 

「最・初」に

「お 笑い・タレント」

   と、して

「開・花」しました。

 

「ロンパリ な・目」と

「上を 向い て・いて」

「穴 が・丸見え」の

「鼻」で

 

「ギ ャ・ハハ」と

「笑う 大きな・口」を

「トレード・マーク」

   と、して

 

ザ・ドリフターズ
   と の

「共・演」で
「人気 を・博し」

 

「茶 の・間」の
「人・々」を

「笑 わ・せ」

   ました。

 

「天 才・バカボン」で

「知 ら・れる」

「漫 画・家」の

「赤塚  不二夫」は

 

「研 ナオコ」の

「ファン・クラブ」の

「会・長」でした。

 

「あ る・日」

「マイク を・持ち」

「ステージ」に

「立・ち」ました。

 

「私」は

「モノマネ・でも」

「やる のか ?」と

「思・い」ました。

 

「し か・し」

「歌い出し の・一節」の

「歌声 を・聞い」て

「ビックリ」しました。

 

「今・まで」に

「聞いた 事の・無い」

「物憂げ な・歌声」
(「ものうげ」)

   でした。

 

「お 笑い・タレント」

   と、ばかり

「思 って・いた」

   の で

 

「ギャップ の・大きさ」に

「驚く と・共」に

「人は 見かけ に・よらぬもの」と

「つく づく・思い」ました。

 

「歌って いる・時」の
「表・情」も
「全・く」

「お 笑い・タレント」の

 

「顔」では

「有 り・ません」

   でした。

 

「1971・年」
「18 歳の・時」に

「リリース・した」

「ファースト・シングル」

 

「大都会の やさぐれ女」で

「メジャー・デビュー」
   しました。

 

「同・曲」は

「200 位・以下」で

オリコン・圏外」

   でした。

 

「代 表・曲」に

 

「かもめは かもめ」

「夏を あきらめて」

「愚 図」等が

「有・り」ます。

 

「1973・年」に

「美 人・画家」で

「知 ら・れ」た

「岩田 専太郎・から」

 

「百年 に・一人」

「出る か・出ないか」の

「不・世出」の

(「ふ・せいしゅつ」)

 

「美・人」と
「絶 賛・され」

(「ぜっ さん」) 

   ました。

 

「1975・年」に

「リリース・した」

「9 th・シングル」

「愚 図」が

 

オリコン・9 位」と

「自 身・初」の

「トップ・10 入り」し

「FNS・歌謡祭」で

 

「最優秀 歌謡音楽・賞」を

「受・賞」し

「出 世・作」に

「成・り」ました。

 

「1976・年」に

「リリース・した」

「11 th・シングル」

「LA - LA - LA」で

 

「紅 白・歌合戦」に

「初・出場」しました。

 

「同・年」に

「あ ん・な」に

「笑わ せる・事」が

「出来 る・なら」

 

「泣か せる・事」も

「出 来る・はず」と
「中島 みゆき」は

「思・い」

 

「初 め・て」

「他 の・歌手」に

「提 供・した」

「泣か せる・楽曲」で

 

「12 th・シングル」

   と、して

「リリース・した」

「あばよ」が


「自身・初」の
オリコン・1位」の

「大 ヒット・曲」に

「成・り」

 

「レコード・大賞・
   歌唱 賞」を

「受・賞」しました。

 

「同・曲」を

「聴 い・て」

(「き い・て」)

「多く の・女性」が

「泣 い・た」そうです。

 

「興味の ある・人」は

研ナオコ 中島みゆき を・
   歌う」で

「検 索・して」下さい。

 

「名・曲」を
「聴 く・事」が

「出・来」ます。

 

「1977・年」に

「厚生 省・麻薬 特捜部」の

「家 宅・捜査」を

「受・け」

 

「大・麻 」や

「喫 煙・具」 等を

「押 収・され」

   ました。

 

「東 京・地検」

「刑 事・部」は

「事案 が・軽微」

   と、して

 

「不 起訴・処分」に

(「前歴 は・付く」が

「前科 は・付かない」)

   しました。

 

「こ の・ため」

「半 年・間」の

「謹慎 を・余儀無く」

   され ました。

 

「1978・年」に

「謹慎 が・解け」た

「復 帰・作」

   と、して

 

「中島 みゆき」が

「提供 した・楽曲」で

「18 th・シングル」と

「成・る」

 

「かもめは かもめ」が

オリコン・7 位」の

「大 ヒット・曲」に

「成・り」

 

「レコード・大賞・

   金 賞」と

「日本 歌謡音楽・賞」を

「受・賞」し

 

「同・曲」は

「20 人 の・歌手」に

「カバー・され」

   ました。

 

「1982・年」に

「サザンオール・スターズ」の

「リーダー 兼・ボーカル」の

「桑田 佳祐・から」

 

「提供 を・受け」た

「楽・曲」で

「29 th・シングル」と

「成・る」

 

「夏を あきらめて」を

「リリース・して」

オリコン・5 位」の

「大ヒット曲 に・成り」

 

「レコード・大賞・

   金 賞」を

「受・賞」しました。

 

「2001・年」

「48 歳の・時」に
「日 本・テレビ」の

「愛は 地球を・救う」で

 

「歴 代・初」の

「女・性」の

「チャリティー ・マラソン」を
「走・り」

 

「85・km」を

「見・事」に

「完・走」しました。

 

「現 在・70 歳」

   です が


「2923 年・8 月」に

「最・新」の

ベスト・アルバム

「オールタイム・ベスト」を

 

「リリース・する」等

「歌手 と・して」

「第・一線」で
「活 躍・する」他

 

「C・M」で

「元気 な・姿」を

「披 露・して」

   います。

 

「私・生活」
   で は

 

「1981・年」

「27 歳の・時」に

「コンサート・会社」の

「社・長」

 

「箕輪 勇ニ 氏」と

(「みのわ ゆうじ」)

「結 婚・する」も

「1985・年」に

「離・婚」しました。

 

「二人 の・間」に

「子・供」は

「い な・かった」
   そうです。

 

「1987・年」

「34 歳の・時」に

「6 才・年下」で

バツ・イチ」の

 

「番組 制作・会社」の

「スタッフ・だった」

「野口 典夫 氏」と
(「のぐち のりお」)

「再・婚」し

 

「同・年」に

「第 一子・長男」が

「1989・年」に

「第 二子・長女」が

 

「各・々」

「誕・生」しました。

 

「紅 白・歌合戦」

   に は

 

「1976・年」の

「LA- LA- LA」〜

「1993・年」の

「かもめは かもめ」まで

   (「2 回・目」)

 

「通 算・11 回」

「出・場」しました。

 

 

「研 ナオコ」

「愚 図」

「作・詞」「阿木 燿子」

「作・曲」「宇崎 竜童」

 

あの娘 が アンタ を 好きだって

  (「こ」)
こっそり あたし に 打ち明けた 時
友達だ もの

「まかせときなよ!」なんて
心にも ない 事 言っちまった
あの娘 は まつ毛 が 自慢の 娘で
瞬き しながら 人を 見るのさ

(「まばたき」)
比べて みたって 仕方が ないよ なんて
独りで 勝手に 決めて いたっけ
あたし って 本当に 愚図な お人好し

 

あの娘 に アンタ を 逢わせた のは
アンタ と 行きたかった

コーヒー ショップ
「仲良くしてよ いい娘 だから!」

なんて
二人を 笑わせて ばかり いたっけ
あの娘 は 精一杯 おめかしを して
アタシ は 色のあせ たジーパン 姿
一人で 矢鱈 喋って ばかり いた から

     (「やたら」)
目の前 の コーヒー も 冷めて しまった
アタシ って 本当に 愚図な おせっかい

 

早く 独りに なりたかった よ
そして 何処かで 泣き たかった
急に 重たい 心の 中に
二人の 笑い声 遠くに 聞こえた
喉まで 出かかった 言葉だ けれど
言わずに 先に 帰って 来たのさ

 

本当は アンタ が 好きだ なんて
今更 言える訳 ないじゃ ないの
アタシ って 本当に 愚図な おばかさん

 

本当は アンタ が 好きだ なんて
今更 言える訳 ないじゃ ないの
アタシ って 本当に 愚図な おばかさん

 

 

「胸 が・ときめく」を

「英・語」で

 

 「My heart flutters」と

 

 (「胸 が・ときめく」)

 

 「言・う」そうです。