何気なく使っている言葉の意味

「触らぬ神に祟りなし」

 

「皆さん」は「触らぬ神に祟りなし」(「さわらぬかみにたたりなし」) と、いう

「ことわざ」を「使った事」は「有り」ませんか?。

 

「触らぬ神に祟りなし」の「意味」は「下記」だ、そうです。

 

・「祟り」(「たたり」) とは「神・仏」や「怨霊」(「おんりょう」) に、より

 「災厄」(「さいやく・災い (「わざわい」) 災難」) を「被る」(「こうむる」) 事。 

 

・「罰」(「ばち」・「神・仏」からの「こらしめ」) や
 「科」(「とが」・「人」からの「非難、責め」) や

 「障り」(「さわり」・「人」からの「さまたげ、支障」) を「受ける」事。

 

・「物事に関係しなけれ」ば「面倒な事」に「巻き込まれる事」は、無い。

 

・「余計な事をしなけれ」ば「災を招かない」「揉め事」(「もめごと」) は

 「傍観的」(「ぼうかんてき」) に「対応するのが・ベスト」と、いう「思考」を、する事。

 

・「面倒な事」に「余計な首を突っ込むな」と、いう「たとえ」。

 

 

「触らぬ神に祟りなし」の「類義語」と、して「下記」が「有る」そうです。

 

・「君子危うきに近寄らず」(「くんしあやうきにちかよらず」)

 

 (「学識・人格」が「優れている人」は「言動を・慎しむ」ので「自ら」「危ない・所」に

 「近づいて・災難に会う」様な「馬鹿な事」は、しない。)

 

・「七日通る漆」(「うるし」) も「手に取らね」ば「かぶれぬ」

 (「なのかとおるみちもてにとらねばかぶれぬ」)

 

 (「面倒な事」に「関わら無けれ」ば「危険に会わない」)

 

・「腰が引ける」(「こしがひける」)

 

 (「責任を取る事」を「怖がり」(「こわがり」)「やり方」が「消極的に・なる」)

 

「私の・個人的な感想」では「この解釈」が「触らぬ神に祟りなし」の「本来の・意味」に

「1番・相応しい」様な「気が」します。

「臭いものに蓋をする」(「くさいものにふたをする」) と「似た・意味」に「聞こえ」ます。

 

 

「触らぬ神に祟りなし」の「対義語」は「下記」だ、そうです。

 

・「寝た子を起こす」(「ねたこをおこす」)

 

 (「静かに収まっていつ物事」に「余計な手出し」を、して「問題を起こす」)

 

・「藪をつついて蛇を出す」(「やぶをつついてへびをだす」)

 

 (「余計な事」や「不必要な事」を、した「結果」「災い (「わざわい」) を招く」)

 

・「義を見てせざるは・勇無きなり」(「ぎをみてせざるはゆうなきなり」)

 

 (「人として・行うべき事」を「行わない」のは「勇気が無いから」)

 

「私の・個人的な感想」では「この解釈」が「触らぬ神に祟りなし」の

「本来の・対義語」に「1番・相応しい」様な「気が」します。

「見て見ぬ振りを・しない」と「似た・意味」です。

 

 

 私が「高校・3年生」の頃「中村 敦夫」(「なかむら あつお」)「主演」の

「時代劇・テレビドラマ」「木枯し紋次郎」(「こがらしもんじろう」) が

「大ヒット」しました。

 

「中村 敦夫」は「東京外国語大学・中退」の「異色の・俳優」でした。

「2,004年」「政治家」に「転向」し「参議院議員」に、なりました。

「2,010年」「旭日中綬章」(「きょくじつちゅうじゅしょう」) を「受賞」しました。

 

木枯し紋次郎」は「大きく・ボロボロ」な「三度笠」(「さんどがさ」) を

「被り」(「かぶり」)「薄汚れた」「道中合羽」(「どうちゅうがっぱ」) を「羽織り」

「長い楊枝」(「ようじ」) を「咥え」(「くわえ」) ながら「旅を」する「渡世人」でした。

「他人との関わりを・嫌い」「己・一本の腕」で「生きる」「ニヒルな・スタイル」でした。

 

木枯し紋次郎」は「悪者に襲われ」「危機となっている人」を「見て」

「あっしには、関わりのない事で、ござんす」と「独り言」を「言いながら」

「見て・見ぬ振り」をし「通り過ぎ」ます。

 しかし「気を・取り直し」で「引き返し」「悪者を・やっつけ」「弱者を・救い」ました。

 

「当時の・時代劇」の「主役」は「悪者を・バッタバッタ」と「切り捨て」ました。

 しかし「木枯し紋次郎」は「さほど・強くなく」「カッコ悪い・姿」で

「かろうじて」「泥くさい・勝利」を「得ま」した。

「現実感」が「溢れて」(「あふれて」) いました。

 

 

「植村 花菜」は「トイレの神様」と、いう「歌」を、歌いました。

 

「植村 花菜」(「うえむら かな」) は「1,983年・生まれ」の「シンガーソングライター」です。

「先祖」に「明治の・元勲」(「げんくん」) と「呼ばれ」た

「大久保 利通」(「おおくぼ としみち」) が、います。

 

「4人きょうだいの・末っ子」と、して「母子家庭に・育ち」

「母が・働いている間」ぱ「祖母に・育てられ」ました。

 そうした「祖母との・思い出」を「基」に「トイレの神様」と、いう「歌」が

「生まれた」のだと「思い」ます。

 

「植村 花菜」は「まずテーマを・決め」「自身の・身の回り」に「起きた事を・題材」に

「長文を・書き」その中から「歌詞になる・言葉」を「抜粋」し「作詞」するそうです。

「2,005年」「大切な人」で「メジャー・デビュー」しました。


「2,010年」「トイレの神様」が「大ヒット」し「社会現象」を「巻き起こし」ました

「同曲」で「紅白・歌合戦」に「初出場」しました。

「同曲」は「9分52秒」も、ある「長い・歌」でしたが「紅白・バージョン」で

「7分50秒に・縮め」「歌唱」しました。

 

 

「植村 花菜」「トイレの神様」「作詞」:「植村 花菜」「作曲」:「植村 花菜」

 

小3 の 頃から なぜだか

おばあちゃん と 暮らしてた

実家の隣 だった けど

おばあちゃん と 暮らしてた

 

毎日 お手伝いを しで

五目並べ も した

でも、トイレ掃除 だけ 苦手な 私に

おばあちゃん が こう言った

 

トイレ には

それは それは キレイな 女神様が いるんやで

だから 毎日 キレイに したら

女神様 みたいに べっぴんさん に なれるん やで

 

その日 から 私は

トイレ を ピカピカに し始めた

べっぴんさん に 絶対なりたく て

毎日 磨いてた

 

買い物に 出かけた 時には

二人で 鴨なんば 食べた

新喜劇 録画し損ねた おばあちゃん を

泣いて 責めたりも した

 

トイレ には

それは それは キレイな 女神様が いるんや で

だから 毎日 キレイに したら

女神様 みたいに べっぴんさん に なれるん やで

 

少し 大人になった 私は

おばあちゃん と ぶつかった

家族とも うまく やれなくて

居場所が なくなった

 

休みの日 も 家に 帰らず

彼氏と 遊んだり した

五目並べ も 鴨なんば も

二人の間 から 消えてった

 

どうして だろう?

人は 人を 傷つけ、大切なもの を なくしてく

いつも 味方をしてくれていた おばあちゃん を 残して

ひとり きり

家 離れた

 

上京して 2年が 過ぎて

おばあちゃん が 入院した

痩せて  (「やせて」)  細くなって しまった

おばあちゃん に 会いに 行った

 

「おばあちゃん、ただいまー!」って わざと

昔みたい に 言って みたけど

ちょっと 話しただけ だったのに

「もう 帰りー。」って

病室を 出された

 

次の日 の 朝

おばあちゃん は 静かに 眠りに ついた

まるで まるで

私が 来るのを 待っていて くれた ように

 

ちゃんと 育ててくれた のに

恩返し も してない のに

いい孫じゃ なかった のに

こんな 私を

待ってて くれたん やね

 

トイレ には

それは それは キレイな 女神様が いるん やで

おばあちゃん が くれた 言葉は

今日の 私を べっぴんさん に してくれてる かな

 

トイレ には

それは それは キレイな 女神様が いるん やで

 

気立ての 良い お嫁さん に なるのが 夢だった 私は

今日も せっせと

トイレ を ピカピカに する

 

おばあちゃん

おばあちゃん

ありがとう

 

おばあちゃん

ホンマ に

 

ありがとう

 

 

※「有り触れた」(「ありふれた」)

 

「触る」(「さわる」) と「触れる」(「ふれる」) は「同じ・漢字」を「使い」ます。

 

「ありふれた」と、いう「言葉」は「ありふれた・毎日」「ありふれた・出来事」の様に

「ひらがな」で「書かれるのが・一般的」です。

「ありふれた」を「有り触れた」と「書く」のを「初めて・知った人」は
「意外に・多い」ような「気が」します。

 

「有り触れた」 の「意味」は「下記」だ、そうです。

・「有る」は「存在する事」「触れる」は「広く・多くの人々」に「知られている」の「意味」

 

・「どこにでも・あること」

 

・「普通で・あること」

 

・「平凡で・つまらない事」

 

 

「有り触れた」の「類義語」と、して「下記」が「有る」そうです。

 

・「何の変哲もない」(「なんのへんてつもない」)

 

・「ご多分に漏れず」(「ごたぶんにもれず」)

 

・「面白味に欠ける」(「おもしろみにかける」)

 

・「凡庸な」(「ぼんような」)

 

 

「すぎもと まさと」は「ありふれた人生だけど」と、いう「歌」を、歌いました。

 

「すぎもと まさと」は「1,949年・生まれ」の

「シンガーソングライター」「作曲家」です。

「作曲者」と、しては「杉本 眞人」と「名乗り」ました。

 

「1,975年」「あすふぁると」で「歌手・デビュー」しました。

「2,007年」「吾亦紅」(「われもこう」) で「紅白・歌合戦」に「初出場」しました。

「今、改めて・聞いてみました」が「心に響く・名曲」だと「思い」ます。

「2,017年」「68歳の・時」「ありふれた人生だけど」を「発表」しました。

 

 

「すぎもと まさと」「ありふれた人生だけど」「作詞」:「星川 裕二」「作曲」:「杉本 眞人l

 

近頃 めっきり 酒も 弱く なり

色気も とうに ご無沙汰 で (「ごぶさたで」)

昔の ことを 思い出し ても

昨夜 (「ゆうべ」) の ことは 忘れてる

 

馴染み (「なじみ」) の 店にも 足が 遠のいて

可愛い あの娘 (「あのこ」) の お誘い や

誰かに 遊びに 誘われた なら

断り きれない 俺が いる

 

ああ 浮世 (「うきよ」) の 義理 も しがらみ も

すべて 捨てたら 気楽 だろう が

そうは いかぬ が 人生 だから

ぐっと こらえて 苦笑い (「にがわらい」)

 

それでも 自分は 自分さ

誇れる ものは ない けれど

ありふれ た ありふれ た 人生 それで いい

 

親しい 友が 今日も また ひとり

遠くへ 行って しまった よ

真赤に 燃えた あの 夏の日 の

若さは すでに ない けれど

 

ああ 泣かされた 過去や 裏切り は

胸に 刺さった 青い 棘 (「あおいとげ」)

戻れない のが 人生 だから

悔やむこと から 逃れ ない  (「のがれない」)

 

それでも 自分は 自分さ

自分 らしく 生きりゃ いい

ありふれた ありふれた 人生 それで いい

ありふれた ありふれた 人生 それで いい・・・

 

 

「触らぬ神に祟りなし」を「英語」で「言う」と「下記」だ、そうです。

 

「Don't ask for trouble」

 

(「やっかい事を、自ら求めるな」)

 

と「言う」そうです。