何気なく使っている言葉の意味

 

「少年よ大志を抱け」

 

「皆さん」は「少年よ大志を抱け」という「名言」を「使った事」が「有り」ませんか?。

 

「少年よ大志を抱け」と「言った」のは「札幌農学校」(「現在の・北海道大学」) の

「初代教頭」だった「クラーク博士」の「言葉」です。

 

「クラーク博士」(「ウィリアム・スミス・クラーク」) は

「1,826年・生まれ」の「アメリカ合衆国・出身」の「教育者」です。

「父親」は「医師」でしたが「動物学・植物学・化学」」に「興味を持ち」「神学校」を

「卒業」すると「アマート大学」に「入学」しました。

 

「1,862年」「26歳・の時」「優秀な成績に惚れ込まれ」「母校」の「アマート大学」の

「教授」に、なりました。

「専門の・化学」以外にも「動物学・植物学」を「教え」ました。

「1,964年」に「マサチューセッツ・農科大学」の「学長」に、就任しました。

「時は」「アメリカ合衆国」の「南北戦争」の「時代」でした。

 

「アマート大学」に「留学」し「クラーク博士」の「授業を受けて」いた

「新島 襄」(「にいじま じょう」・「同志社大学を設立した人物」)や「日本政府」は

「クラーク博士」の「来日」を「懇願」しました。

「1,976年」(「明治・8年」)「クラーク博士」は「札幌農学校の・教頭」として

「来日」しました。

 

「クラーク博士」は「南北戦争」で「多くの教え子」を「亡くし」(なくし) ました。

「日本」でも「戊辰戦争」(ぼしんせんそう)で「多くの若者」が「犠牲」に、なりました。

「クラーク博士」は「自身の体験」を「元に」「日本の復興の手助けをしたい」という

「思い」で「来日を決断」しました。

 

札幌農学校」の「生徒」には「旧幕府軍側の・元武士」が「多く」いました。

「彼等」は「元・武士という・プライド」から「農民と同じ仕事」を、する事に

「抵抗を示しました」が「クラーク博士」の「熱心な指導」に、より

「酪農の・魅力」を「感じるように」なりました。

 

  これが「北海道の・酪農」・「農業」の「発展に繋がった」ことから

「クラーク博士」は「北海道開拓の父」とも「呼ばれて」います。

 

「8ヶ月間の・滞在」を「終える」と「クラーク博士」は「アメリカに・帰国」しました。

「お別れの会」の「挨拶」で「あの名言」を「残し」ました。

 

「少年よ大志を抱け」(「Boy‘s be ambitious」・「ボーイズ・ビー・アンビシャス」)

 

「少年よ大志を抱け」には「続き」が、ありました。

 

・「金を求める大志」で、あっては、ならない。

 

・「利己的な物を望む大志」で、あっては、ならない。

 

・「名声という、浮わついた物を求める大志」で、あっては、ならない。

 

・「人として為すべき全ての本分」に「対して」「大志」で、あれ。

 

 

  私は「支店を回っていた頃」「新入生の男子社員」を「青年」と「呼びかけた事」が

「結構」有りました。

「幼げに見える」「新入生の女子社員」を「少女」と「呼びかけた事」も、有りました。

 

  もちろん「空気を読み」「相手との距離感を計り」「受け止めてくれる」と

「確信した人以外」には「そんな呼び方」は、しませんでした。

  しかし「22歳〜23歳」の「女性」を「少女」と「呼ぶ事」に「違和感」が「有り」ました。

 

「男子を・青年」と「呼ぶ」のに対し「同年の・女子」を「何と呼べばいいのか?」

  私は「一生懸命」考えました。

「乙女」(おとめ)と、いう「言葉」も「頭に浮かび」ましたが「青年に対応する言葉」としては

「そぐわない」と、思いました。

 

「ある支店」での「出来事」でした。

  私は「いつものように」「営業室」で「仕事をして」いました。

 

「課長」「課長代理」「新入生の・男女」の「4人」で「仕事をこなして」いました。

「新入生」の「女性」は「可愛く・大人びて」見えました。

  とても「少女」と「呼びかける箏」は「出来」ませんでした。

 

「上司の指導が良い」せいか「新入生の・男女」は「生き生きと」「働いて」いました。

「こなしている仕事の質・量」は「新入生」の「レベル」を「超えて」いました。

 

  私は「解きかねていた問題」を「4人」に「ぶつけ」ました。

  すると「新入生の・女性」が「女性も・青年と呼んで」「いいんじゃないですか?」と

「答え」ました。

  私は「目からウロコが落ちた」「気分」が、しました。

 

「昔」は「1月・15日」が「成人の日」でした。

NHK・総合テレビ」で「青年の主張」という「特集番組」が「放映され」ました。

「男性だけでなく・女性」も「自分の考え」を「堂々と・述べて」いました。

  そして、私は「遂に」「ネット」で「下記の記事」を「見つけ」ました。

 

「新生児」・・・・「出生後」「28日未満の・男・女」

 

「乳児」・・・・・「出生後」「1年未満の・男・女」

 

「幼児」・・・・・「出生後」「1歳以上〜「就学前の・男・女」

 

「児童」・・・・・「就学後〜「12歳の・男・女」

 

「少年」・・・・・「6〜7歳」〜「18歳未満の・男子」

 

「少女」・・・・・「6〜7歳」〜「18歳未満の・女子」

 

「青年」・・・・・「18歳」〜「30歳未満の・男・女」(特に「男」の事を言う事が多い)

 

「壮年」・・・・・「30歳」〜「45歳未満の・男・女」

 

「中年」・・・・・「45歳」〜「65歳未満の・男・女」

 

「老年」・・・・・「65歳以上の・男・女」

 

  やはり「18歳〜30歳未満」の「女性の・呼び方」は「青年」で「正しい」事が

「確認でき」ました。

  しかし、私は「新入生の・女性」を「青年と・呼んだ事」は「一度も」「有り」ませんでした。

  そして、「いつのまにか」私は「老年」と、呼ばれる「年齢」に、なってしまいました。

 

「因みに」「1月・15日」は、私の「誕生日」です。

「昔」は「成人の日」で「祝日」でしたが「今」は「平日」に「降格」と、なってしまいました。

 

「10月・10日」は「結婚記念日」です。

「昔」は「体育の日」で「祝日」でしたが「今」は「平日」に「降格」と、なってしまいました。

  私は「つい」「これまでの人生」と「重ね合わせて」しまいます。

 

「何故」「クラーク博士」は「青年(女性を含む)よ大志を抱け」では無く

「少年よ大志を抱け」と「男子のみ」を「対象」に「言ったのか?」私は「考えました。

札幌農学校」は「日本で初めて」「学士号」(「大学卒業者」に・与えられる称号」)の

   授与権」を、持つ「高等教育機関」でした。

 

「クラーク博士」が「教鞭」(きょうべん) を、とった「明治・8年当時」に

「女学生」が、いたはずが「有り」ません。

  だから「クラーク博士」は「少年よ大志を抱け」と「言った」のだと「解釈」して、います。

 

「女性」が「学士号」を「取得」出来るようになった」のは「クラーク博士」の名言」から

「24年経った」「1,900年」に「津田 梅子」(「2,024年・発行予定」の

「新しい・五千円札の肖像」) が「設立」した「女子英語塾」(後の「津田塾大学」)が

「最初」です。

 

  それほで「当時の・女性」は「男女・不平等」(だんじょ・ふびょうどう) を

「虐げられて」(しいたげられて) 来ました。 

「今の時代」に「生きている・貴女達」は「幸せと・感ずるべき」かも、知れません。

 

 

ザ・フォーク・クルセダーズ」は「青年は荒野をめざす」という「歌」を、歌いました。

 

ザ・フォーク・クルセダーズ」は「昭和40年代前半」に「デヴュー」した

「フォークグループ」です。

「1,967年」に「デヴュー」し、翌「1,968年」に「解散」しました。

 

帰って来たヨッパライ」は「当時」「史上初」の「ミリオンヒット」に、なりました。

「悲しくてやりきれない」も「大ヒット」しました。

イムジン河」は「政治的理由」により「発売中止」と、なりました。

「青年は荒野をめざす」を「最終曲」と、して「解散」しました。

 

「メンバー」の「1人」だった「はしだ のりひこ」は「色々なグループ」を「結成」し

「多くの名曲」を「世に送り出し」ました。

 

「はしだ のりひこ と シューベルツ」

・「風」

 

「はしだ のりひこ と クライマックス」

・「花嫁」

 

 

ザ・フォーク・クルセダーズ」「青年は荒野をめざす」

「作詞」:「五木 寛之」「作曲」:「加藤 和彦」

 

ひとりで 行くんだ

幸せに 背を向けて

さらば 恋人よ

なつかしい 歌よ友よ

いまウゥゥゥゥ  青春の 河を越え

背年は 青年は 荒野を めざす

 

もうすぐ 夜明けだ

出発の 時がきた

さらば ふるさと

想い出の 山よ河よ

いまウゥゥゥゥ  夕焼けの谷を越え

青年は 青年は  荒野を めざす

 

みんなで 行くんだ

苦しみを 分け合って

さらば 春の日よ

ちっぽけな 夢よ明日よ

いまウゥゥゥゥ  夕焼けの谷を越え

青年は 青年は  荒野をめざす

 

ひとりで 行くんだ

幸せに 背を向けて

さらば 恋人よ

なつかしい 歌よ友よ

いまウゥゥゥゥ  青春の河を越え

青年は 青年は  荒野をめざす

 

「作詞」した「五木 寛之」は「1,932年・生まれ」の「小説家」「随筆家」です。

「赤川 次郎」と「並び」「私の記憶に残る」「小説家」でした。

 

「歌手」の「五木 ひろし」の「芸名」は「五木 寛之」の「名字」と「名前の一部」を

「もらい」「小説家」を「目指して」いた「山口 洋子」が「名付け」ました。

 

「五木 寛之」の「小説」は「芥川 龍之介」の、様な「純文学」では無く「大衆文芸」でした。

「従って」「直木賞」「吉川英治文学賞」「「菊池寛・賞」等

「多くの賞」を「受賞」しましたが「芥川賞」は「受賞して」いません。

 

 

※  「つけ麺」事件

 

 

私達の年代の人達」は「美空 ひばり」の「名前」を「聞くだけ」で

「背筋がピーン」と「伸びる」のでは、ないでしょうか?。

  それほど「偉大な歌手」でした。

 

「美空 ひばり」は「1,937年5月生まれ」の「歌手」「女優」でした。

「12歳」で「歌手デヴュー」し「天才少女歌手」と「謳われ」(うたわれ)

「自他共に」「歌謡界の女王」と/「認められる存在」に、成りました。

「女性」として「史上初」の「国民栄誉賞」を「受賞」しました。

 

「身長」「147cm」と「小柄」ながら「テレビ」で「見る姿」は

「ズット大きく見え」ました。

「愛称」は「お嬢」(おじょう) でした。

 

「敗戦まもない」「1,946年」に「9歳の時」「NHK・素人のど自慢」に「出場」し

「予選」で「リンゴの唄」を「歌い」ました。

「聞いていた人」は「誰も」が「合格」を「確信」しました。

  しかし「鐘は」「鳴りません」でした。

 

「歌はプロより上手い」が「子供が大人の恋愛の歌」を「歌う」のは、けしからん」

「真っ赤なドレス」も「良くない」と

「本質」(のど自慢) と「関係ない」「理不尽な評価」で「若い芽を摘む」ように

「古賀 政男」を含む「審査員」は「不合格」と、しました。

 

「1,949年」「12歳の時」「悲しき口笛」で「主演女優」を「果たし」「同主題歌」も

「当時、史上最高の売り上げ」を「記録」しました。

「1952年」「15歳の時」「主演した映画の主題曲」となった「リンゴ追分」が

「自身が持つ記録」を「更新する「ヒット曲」と、成りました。

 

「美空 ひばり」は「歌手」として「有名」ですが「150本を超える映画」に

「主演女優」として「出演」した「大女優である事」は「あまり知られて」いないと、思います。

「映画」で「美空ひばり」と「共演する事」が「大スターへの登竜門」でした。

 

「1,954年」「17歳の時」「ひばりのマドロスさん」で

NHK紅白歌合戦」に「初出場」しました。

「1,960年」「哀愁波止場」で「第2回・日本レコード大賞・歌唱賞」を「受賞」し

「歌謡界の女王」の「異名」を、取りました。

 

「1,962年」「25歳の時l「美空 ひばり」の「アタック」により「小林 旭」と「結婚」しました。

「間を取り持った」のは「美空 ひばり」の「父親代わり」と「名乗っていた」

暴力団」「山口組・2代目組長」でした。

「現代では」「マル暴」と「接触」が有るだけで「芸能界」を「永久追放」されるでしょう。

 

「小林 旭」は「いわば」「愛情の無い」まま「結婚させられ」ました。

「当然のよう」に「2年余り」で、「離婚」年」しました。 

美空ひばり」は「一生懸命尽くしました」が「気持ち」が「伝わらなかった」そうです。

 

「1,970年」には「史上初」となる「紅組司会者」と「歌の・大トリ」を「務め」ました。

「美空 ひばり」は「NHK紅白歌合戦」に「第5回」・「第8回〜23回」まで「17回連続」

「計・18回」出場」しました。

 

美空ひばり」は「1,985年」「48歳の時」「体調不良を訴え」「3ヶ月間」「入院」しました。

「病名」は「重度の慢性肝炎」及び

「突発性大腿骨壊死症」(とっぱつせいだいたいこつえししょう・「大腿骨」(だいたいこつ)の

「骨組織」が「壊死」(えし・「体の組織の一部が死んでいく事」)でした。

 

 「元号」が「昭和」から「平成」に「変わった」「1,989年」「51歳の時」

「美空 ひばり」は「川の流れのように」という

「生涯最後」の「シングル」を「発表」しました。

 

  私は「You Tube」で「歌」を「聞き」ました」

「この歌」に対する、私の「感想」を「書かせてもらい」ます。

「私」とは「美空 ひばり」の事です。

 

  私は「時が経つ」のも「気付か無かった程」「がむしゃら」に「苦難に遭遇しながら」

「前だけを見つめて」「長い道のり」を「歩き続け」・「生きて」来ました。

 

  私は「死が近づいている」のを「悟り」「これまでの人生」を「振り返って」見ました。

「目的」も「目標」も「わからないまま」に「周囲の期待」や

「時代の流れ」に「翻弄」(ほんろう)されて」きた「私の人生」でした。

「皆さん」にも「色々な試練」が「待ち受けているかも「知れません」が

「いつか必ず良い事があるはず」なので「希望を捨てず」に「頑張って下さい」

 

  私は「流れ」が「ゆったり」とした「広い川」を「小さな舟に乗り」「下り」(くだり)ます。

「大きな海」に「たどり着く頃」には「私の命」は「絶えている」でしょう。

「私は」「海の藻屑」(うみのもくず) と、なるでしょう。

 

「そんな意味」を「込めて」「美空 ひばり」は「川の流れのように」を

「歌っていた」ような「気」が、します。

 

 

「1,989・6・24」「美空 ひばり」は「呼吸不全」の為「逝去」しました。

「享年」「53歳」でした。

「同年・7・22」に「青山葬儀場」で、行われた「葬儀」には「4万2千人」が「弔問」しました。

「美空 ひばり」を「慕った・歌手仲間達」は「川の流れのように」を、歌い

「墓前」(ぼぜん) に「捧げ」(ささげ) ました。

 

※「つけ麺事件」

 

その日の「昼休み」「他の仕事メンバー」は「食べ放題の・バイキング」に「行き」ました。

  私は「その日」も「体調が優れず・食欲も余り無かった為」「支店の人に教えてもらった」

「評判」の「つけ麺・専門店」へ「初めて・行き」ました。

「昼時」なので「店内」は「サラリーマン」で「混雑」して、いました。

 

「券売機」で「食券」を「求める・方式」でした。

「1,000円・を軽く超える」「豪華な・つけ麺」も:「有り」ました。

  私は「迷った末」「一番安い・750円」の「つけ麺」に「決め」ました。

 

「千円札」で「食券」を「買おうとしていた時」でした。

「急に・店内に」に「五輪 真弓」(いつわ まゆみ) が歌う「恋人よ」が「流れて」来ました。 

  私は「聴き惚れて」(ききほれて)「お釣り」の「250円」を「とり忘れて」しまいました。

「とり忘れた」事、に「気付いた」のは「歌」が「終わった後」でした。

 

「券売機」を「見に行き」ましたが「お釣り」は「残って」いませんでした。

  私の「後ろに並んでいた人」の内「誰か」が「気付いたはず」です。

  私だったら「誰のとり忘れか、分からなければ」「店員さん」に「届け」ました。

 

「店員さん」は「大きな声」で「お釣りをとり忘れた人は・いませんか?」と

「言った」はずです。

  しかし「店の中で話題になる事」は「有り」ませんでした。

 

   私は「性善説」(せいぜんせつ・「人は本来皆んな良い人」

 「唱えた」(となえた) のは「中国の・孟子(もうし) 」を「信じて」います。

「250円」と、いう「金額の問題」では「有り」ませんでした。

 

 「善人そうな顔」を、して 「ねこばば/」(悪事をして知らん顔をする箏)する人」が

「いたのではないか?」と「考えるだけ」「私の気持ち」は「沈んで」しまいました。

 

「支店の人」に「話す」と「1,000円の・つけめん」に、しとけば「良かったですね」と

「変な慰められ方」を、されました。

 

 

「五輪 真弓」は「恋人よ」という「歌」を、歌いました。

 

「五輪 真弓」は「1,951年・生まれ」の「シンガーソング・ライター」です。

「1,972年」「少女」で「日本・デヴュー」しました。

「同時期」「「アメリカ・ロサンゼルス」で「レコーディング」された「アルバム」

五輪真弓/少女」を「海外に発表」しました。

 

「当時」「大活躍」していた「アメリカ」の「キャロル・キング

   (女性シンガーソング・ライター) は「五輪 真弓」の、歌を「絶賛」しました。

「世界の・オリコン」で「第・6位」と、なりました。

「和製」「キャロル・キング」と「呼ばれ」「日本女性」の

「フォークシンガーソング・ライター」の「草分け」でした。

 

「1,980年」「恋人よ」が「大ヒット」し「五輪 真弓」の「代表作」と、なりました。

「同年」「第・22回・レコード大賞」を「受賞」しました。

NHK紅白歌合戦」には「恋人よ」で「初出場」し「計・5回」「出場」しています。

 

 

「五輪 真弓」「恋人よ」「作詞」:「五輪 真弓」「作曲」:「五輪 真弓」

 

枯葉散る 夕暮れは

来る日の 寒さを ものがたり

雨に壊れた ベンチには

愛をささやく  歌もない

 

恋人よ  そばにいて

こごえる 私の  そばにいてよ

そしてひとこと  この別れ話が

冗談だよと  笑ってほしい

 

砂利路(じゃりみち) を  駆け足で (かけあしで)

ラソン人(びと) が  行き過ぎる

まるで忘却(ぼうきゃく)  のぞむように

止まる私を  誘っている

 

恋人よ  さようなら

季節は めぐって  くるけど

あの日の二人  宵(よい) の流れ星

光っては消える  無情(むじょう) の夢よ

 

恋人よ  そばにいて

こごえる私の  そばにいてよ

そしてひとこと  この別れ話が

冗談だよと  笑ってほしい

 

 

「少年よ大志を抱け」を「英語」で「言う」と

 

「Boy have ambitious」

 

  (「少年よ野心(大志) を持ちなさい」」

 

  と「言う」そうです。