何気なく使っている言葉の意味

「芽生える」

 

皆さんは「何気なく」「芽生える」(めばえる)という「言葉」を、

使ったことがありませんか?

 

「芽生える」の意味は

 

『「芽」が「出始める」』(草木・くさき)

『「物事」が「起こり始める」』

『「兆し」(きざし)が「起きる」』

『「幸運」が「巡って来て」(めぐってきて)「成功の糸口」が「開ける」』

 

等、だそうです。

 

 

「芽生える」の「類義語」としては

 

「萌える」(もえる)

「萌芽」(ほうが)する」

「萌え出る」(もえでる)

「芽吹く」(めぶく)

「誕生する」

「日の目を見る」(ひのめをみる)

 

辺りが妥当な気がします。

 

「芽生える」の「対義語」を「パソコン」で「検索」しても、出てきません。

「芽が出ない」

「芽を摘まれる」(めをつまれる)

「埋もれる」(うずもれる)

 

辺りが妥当な気がします。

 

 

私は「萌」(もえ)という名の「女性」何人かと「接触」が、有りました。

皆んな「同年代」で「不思議と」「可愛くて」「魅力ある人達」ばかりでした。

 

「萌」という名には

 

・『「元気」に「成長」して欲しい」』

・『「大きく育って」欲しい」』

・『「希望」を持って「前向き」に「生きて」欲しい」』

 

   等、の「意味」があるそうです。

 

「父母」「祖父母」が『「ポジティブ」に「生きて欲しい」という「願い」を込めて』

「名付けた」のだと、私は思います。

 

明治安田生命」が「発表」する『「女の子」の「名前」「ランキング」』によると、

「1,996年〜2,003年 」の「8年間」ずっと「ベスト10」に「ランクイン」したそうです。

「男の子」の場合には「萌」を「ハジメ」と、読ますそうです。

「2,004年」以降は分かりません。

 

「因みに」(ちなみに)「2,018年」「女の子」の名前「ランキング」は

 

「1位」「結菜」(ゆな)・「咲良」(さくら)

「3位」「陽葵」(ひまり)

「4位」「莉子」(りこ)

「5位」「芽衣」(めい)

「6位」「さくら」(さくら)・「結衣」(ゆい)・「杏」(あん)

「9位」「凛」」(りん」

「10位」「紬」(つむぎ)

 

  だそうです。(「25位」まで「発表」されています)

「萌」は「ランクイン」していません。

 

 

  私の「実母」・「養母」・「妻」・「義妹」(ぎまい」・「長女」・「二女」「三女」と

「全て」「名前の最後」に「子」が付きます。

「義母」・「妻」・「義妹」は「⚪︎子」と「2文字」です。

「実母」・ 「長女」・「二女」・「三女」は「⚪︎⚪︎子」と「3文字」です。

 

「祖母の名」は「とり」でした。

「義祖母の名」は「せい」でした。

 

「明治時代」の「女性の名」は「2文字」の「ひらがな」が、多かったようです。

 

 

「目が出た人」で忘れられないのは「永田 洋子」(ながた ひろこ)です。

「永田 洋子」は「1,945年生まれ」で「1970年頃」「左翼」の「過激派」と言われた

連合赤軍」(れんごうせきぐん)の中で「NO2」の「地位」にいました。

 

連合赤軍」の「思想」は『「革命」の為に「命を捧ぐ」(ささぐ)』でした。

 

「永田 洋子」達「幹部」は「同士」を「日和見」(ひよりみ・『「有利な方に付こうと

「形勢」をうかがう事」』)・「思想が違う」・「命令を無視した」等の「理由」で

『「総括」(そうかつ・「活動」「生活」等を「評価・検討する事」)の「名の元」(なのもと)

「12名」の「同士」を「リンチ・粛清」(しゅくせい)しました。

 

浅間山荘事件」は「1,972・2・19」〜1972・2・28」(219時間)に起きた

「人質立てこもり事」でした。

「警察の追って」から逃れた「5人」(「永田 洋子」は「既に」「逮捕されていた」)は

浅間山荘」の「管理人の妻」を「人質」に「籠城」(ろうじょう)しました。

「警視庁機動隊」「長野県機動隊」が「人質救出作戦」を行うも「難航」しました。

「警察側」に「3名」の「死者」「27名」の「重軽傷者」が「発生」しました。

(「5人」が「使った武器」は「散弾銃」・「ライフル銃」・「拳銃」・「パイプ爆弾」でした)

「最後」は「警察」の「特殊部隊」が「強行突入」し「5人」は「逮捕」され

「人質」は「救出」されました。

 

「この事件」の「一部始終」は「NHK」「民放」で「生中継」され「視聴率」は

「90%」に達し「記録」は、いまだに「破られて」いません。

 

「永田 洋子」は「死刑囚」でしたが「獄中」で「病死」しました。

「永田 洋子」は「バセドウ氏病」(現在は「バセドウ病」と言う)でした。

「逃亡生活」の為「医者の治療」は、受けられなかったのだと思います。

「テレビに映った顔」を、忘れることができません。

 

 「この時」 私は「高校3年生」でした。

革マル派」・「中核派」・「連合赤軍」等の「過激派」の思想」を

「狂気の思考」と、思っていました。

 

  従って「大学生」になっても、私は「ノンポリ」でした。

「当時」の「ノンポリ」の「定義」は

『「政治」・「学生運動」に「無関心」な「学生」』でした

 

 

「麻丘 めぐみ」は「芽生え」という「歌」を歌いました。

「麻丘 めぐみ」は「1,955年生まれ」で「1,970年代」を

『「代表」する「アイドル」の「1人』で「清楚」(せいそ)な「ルックス」と

「優しい歌声」で「「一時代」を、築きました。

  (私は、特に好きではありませんでした)

 

「麻丘 めぐみ」  「芽生え」    「作詞 : 千家 和也」  「作曲 : 筒美 京平」

 

もしもあの日  あなたに逢わなければ

この私はどんな  女の子になっていたでしょう

足に豆をこさえて  街から街

行くあてもないのに

泪(なみだ)で歩いて  いたでしょう

悪い遊び憶えて(おぼえて)  いけない子と・・・・・

人に呼ばれて  泣いたでしょう

今も想い出すたび  胸が痛む・・・・・

もうあなたのそばを  離れないわ  

離れないわ

 

もしもあの日  あなたに逢わなければ 

この私はどんな  女の子になっていたでしょう

白い薔薇(バラ)の匂い(におい)も  鳥の声も

まだ気付く事なく 

ひっそり暮らして  いたでしょう

誰か人に心を  盗みとられ・・・・・

神の裁き(さばき)を  受けたでしょう

今も想い出すたび  恐く(こわく)なるわ・・・・・

もうあなたのそばを  離れないわ

離れないわ

 

「歌詞」の「何処にも」「芽生え」という「言葉」が、有りません。

「あたかも」「行間を読め」(ぎょうかんをよめ)と「試されているかのよう」です。 

「既に」『「恋」の「芽生え」は「過去」のことと』私には「感じられ」ます。

「この歌詞」から「芽生え」という「曲名」を「イメージ」出来る「感性」を持つ人を、

  私は「尊敬」します。

 

「作詞」した「千家 和也」(せんけかずや)の「代表作」には「この曲」の他に

 

「私の彼は左きき」(麻丘 めぐみ」・「バスストップ」(平 浩二)・「終着駅」(奥村 チヨ)

「雨」(三善 英史)・「君が美しすぎて」(野口 五郎)・「ひと夏の経験」(山口 百恵)

「そして神戸」(「内山田 ひろし」と「クールファイブ」(「前川 清」)と

「昭和を代表する名曲」を「数多く」「作詞」しています。 

 

これらの「歌」は「歌詞」から「曲名」を「連想」する事が「容易に」出来ます。

 

「私の彼は左きき」(麻丘 めぐみ)という「歌」を「私の彼は左巻き」と

「替歌」(かえうた)で「私達は」歌っていました。

 

左巻き」の意味は

『「つむじ」が「左に巻いている人」は「頭が悪い』という「俗説」(ぞくせつ)から

「頭の働きが鈍い」です。

  私も「つむじ」があった頃は「左巻き」でした。

 

 

「自然薯 栽培」

 

「今回の作業」(「1月中旬」〜「4月初旬」)の過程で

「持病」の「つい甲板ヘルニア」(ギックリ腰)が「再発」してしまいました。

  この「病」とは「40年間」のお付き合いです。

「10日間」位「肉体労働」を、控えざるを得ませんでした。

 

「1年半前」にも「ギックリ腰」で「近所」の「整形外科医院」で「MRI検査」を

  受けました。

  その時の「画像」では「5個ある腰椎」(ようつい)の内『「上から3番目」の「腰椎」と

「4番目」の「腰椎」の間』には「本来」あるべき「クッション」の役割を果たす

「繊維輪軟骨」(せんいりんなんこつ・つい甲板)が「すり減って」無くなっていました。

 

「今回」も「同じ病院」で「MRI検査」を「受診」しました。

「診断結果」は「つい甲板ヘルニア」でした。

  しかし「先生」から聞かされた「診断の説明」では

「病名」こそ「つい甲板ヘルニア」だが「長年」失われていた「繊維輪軟骨・つい甲板」が

「蘇って(よみがえって)きている」とのことでした。

  そのせいか「痛み止めの薬」を飲みながら「細かい作業」をする事は「可能」でした。

 

「病は気から」と言う「ことわざ」があります。

「充実した気力」のせいで、私は「病」を「克服」しているのかもしれません。

 

  私は「40歳代中頃」「つい甲板ヘルニア」で「4日間」「入院」した事がありました。

「自力」で「ベッド」から「起き上がる」事も出来ず

「歩く事」も「車に乗る事」も「介助」(かいじょ)無しでは「不可能」でした。

 

「入院3日目」に「職場の上司」が「見舞いと称して」

「運転手付きの黒い車」でやって来ました。

「個人名」での「見舞い品」を、手渡されました。

  (後で分かったのですが、「会社の経費」で「買った物」でした)

 

「上司」は「痛みに耐え」「引きつった顔をしている私」に、こう言い残して帰りました。

『自分も「時々」「腰が痛くなるが」「会社を休んだ事」は「一度も無い」』

 

「翌日」「医者の阻止」を「無視して」私は「退院」しました。

「その翌日」私は「家族の運転」する「車で」「痛みをこらえながら」「出勤」しました。

「「快気祝いと称した品」を「上司個人」に、渡しました。

 

  私は「上司」を「心の中で」『「H」・「J」』と、呼んでいました。

  (「アルファベット」で『「H」と「J」』の間に「本来」あるべき『  I   』が無い(愛が無い)

 

  私は「丸1年」で「転勤」となりました。

「私の知る限り」に於いて「当時」「上司の元」で「私と一緒に働いた人」で

「少なくとも」「3人」が「退職」しました。

「皆」「優秀な人」ばかりでした。

「上司」は「上に優しく」「下に厳しい人」でした。

 

「上司」と「一緒の職場」で、私は「働く気力が弱まっていく」のを「感じ」ました。

「モチベーション」なく「ダラダラ」と、働いていました。

「上司」は「会社の・NO3」まで「上り詰め」ました。

  私は「上司」を「反面教師」として「今後とも」「生きていく」つもりです。

 

 

「31・4・30」

 

「兄」から「自然薯」が「芽生え」「ツル」が「伸び始めた」との「連絡」がありました。

「折しも」「ふれあいパーク」で「八重桜」(やえざくら)の「散り具合」を「確認」した後

「帰宅」して「「テレビ」で『「相棒」「2時間30分・スペシャル」を見ていた時でした。

 

    私は「前回のブログ」で「発芽し、ツルが伸びる」のは

  「桜の花」が「散り終わる頃」だと「予言」しました。

    私の「予感」は「1週間位」「外れて」しまいました。

 

「桜」の中で「1番多い」「染井吉野」(ソメイヨシノ)は「4月中旬」に

「花が」「散り終わり」「葉桜」(はざくら)に、なりました。

「今さっき」「見てきた」「八重桜」も「散り終わり」そうでした。

「野山の自然」の中で「生息」(せいそく)する「天然自然薯」も

  「発芽」し「ツル」が「伸び始めて」いる事と、思います。

「前回のブログ」で「「書いた通り」「写真を添付」します。

 

「1・5・1」

 

  私は「栽培現場」を「視察」しました。

  ほぼ「100%」「芽生えて」いました。

  中には「ツル」が「10cm位」「伸びている物」もありました。

「危惧」(きぐ)していた「最初の関門」は「クリア」出来ました。

  私の『『これまでの」「人生」で「初めて」「芽が出た」』気がします。

「次の関門」は「ツル」が「竹を伝って」「山まで伸びるか」です。

 

 

 

 

 

ここに写真を添付

 

・「芽」がで「ツル」が「伸びた「写真」

 

 

「何人かに」「おめでとう」と言われました。

「おめでとう」を「英語」で「congratulation」」「コングラチュレーション」と言います。

「コングラチュレーション」は『「相当の努力」をし、

「成功を成し遂げ」た「人達」に「対して」「使う言葉」』です。

  (「卒業」「就職」「昇進」「婚約」「結婚」「出産」等)

 

  一方「努力が無く」ても「毎年」やって来る「おめでとう」があります。

  (「新年」「誕生日」等)

 

「正月」は「Happy・New・Year」(明けましておめでとう)と、言います。

「誕生日」は「Happy・⚪︎⚪︎th・Birthday」

  (⚪︎⚪︎回目の誕生日・おめでとう)と、言います。

 

「ブログ」「先見の明」で『私には「先見の明」が無い』と、書きました。

  しかし「特注」で「コンテナ」を、載せた「中古の軽トラック』(ペガサス)を

「購入した事」に関しては「先見の明」が有ったと、つくずく思いました。

 

ライトバン」「普通の軽トラ」では「今回の作業」は「絶対に」「不可能」でした。

「コンテナ」の中は「他人の目」からは、分かりません。

「積んである物」が「風で吹き飛ばされ」たり「落下する事」も、ありません。

 

「車1台通るのが、やっと」の「獣道」(けものみち)に近い道も

「平気」で入って、行きました。

 「行止り」の為「バック」で「太い道」まで「帰って来た」事が「何十回」も、

   ありました。

 「中古」なのでに「道にはみ出た木の枝」により「車に傷が付く事」を

「恐れた事」は「1度も」有りませんでした。

「1日」「100km」以上「走った事」は「何十回」もありました。

「勿論」「運転中」は「松山千春」の「CD」を「歌い続け」ました。

 

「兄」は「数カ所」の「畑」を「相続」により「所有」しています。

『「借り手」の有る「畑」』は「わずかの賃料」で「貸して」います。

『「借り手」の無い「畑」』は「何十年間」「耕作」』していません。

「地目」こそ「畑」ですが「現況」は「原野」で「荒地」となっています。

「雑草の根がはびこり」「スコップ」で「穴を掘る事」すら、出来ません。

  私には「土中で栽培」するという「選択肢」は「初めから」有りませんでした。

 

「30・9・30」に「開催」された「中学校の同窓会」で、私は「当時考えていた」

「自然薯栽培方法」を「力説し」「何人か」から「共同でやろう」との

「意思表示」を「得て」いました。

 

 しかし「兄」から「『「農家」にとって「畑」は「命だ」「机上の空論」で

「人を巻き込むのは止めろ」』と「諭され」(さとされ)ました。

「考えてみると」私には「何一つ」「経験」も「実績」も有りません

  私は「兄の意見」は「正しい」と思いました。

「誰もが認める」「実績」が出るまでは「独力」で「挑戦」する事に、決めました。

 

「20年以上前」に「買った」「小型耕運機」「穴掘り機」は「修理不能」と言われました。

  私は「独力で」「人力のみ」で「出来る」「栽培方法」を「何通り」か、考えました。

「結局」「今回の栽培方法」に「落ち着き」ました。

 

  私が今回「栽培場所」に「選んだ」のは「兄の家」(実家の隣)から「100m」離れた

「荒れ地」になっている「畑」でした。

「天然自然薯」が「自生」する「荒れた山」の「麓」(ふもと)に「位置して」います。

「天然自然薯」は「日当たりが良く」「早く日が陰る」「北向きの雑木林」等に

「自生」している事が「」多い」です。

「私が選んだ場所」は「栽培」に「適している」と「判断」しました。

 

「前のブログ」でも、書きましたが、「自然薯農家」は

『「畑」に「畝」(うね」を作り』ます。

  そして「土中」に「浅く斜め」に「クレパーパイプ」を埋め

「自然薯」を「栽培」します。

 

「勘違い」している人が「多い」と思いますが「自然薯」は「毎年、生まれ変わり」ます。

「4月下旬〜「5月初旬」になると『「親イモ」(「種イモ」)の養分』を使い

「頭の部分」から「芽生え」「ツル」を伸ばします。

「ツル」は「10m以上」伸びます。

 

  そして「葉」をつけます。

「葉」は「光合成」を行い、作成された「デンプン」は「ツル」を伝い

「親イモ」の「頭の部分」から「今年生まれた」「小イモ」が「生え」「成長」します。

「早い時期」に掘ると「親イモ」と「小イモ」の「2本」「一緒に」掘れてしまいます。

「親イモ」は「シワクチャ」に、なっています。

 

  これを「秋の終わり」まで続けます。

「結局」「親イモ」は「全ての養分」を「使い果たし」「最後」は「皮」すら残りません。

  代わりに「天然自然薯」の場合は「小イモ」は「異変」が無い限り、

「親イモ」より「1年間」で「5cm〜10cm位」大きく育ちます。

 

「何か」「人間の様」で「切なく」なってしまいます。

「自然薯」の「生態」が「私の人生観」に「似ている」為、

  私は「25年間位」「天然自然薯」を「掘り続けた」のかも、しれません。

 

「時には」「猟犬」の「吠え声」・「猟銃」の「音」に「怯え」(おびえ)ました。

「時には」「穴の中」に「逆立ち」の様に「頭」を「突っ込み」

「出られなく」なりそうになりました。(私は何時も「1人」で掘っていました)

 

「自然薯栽培」に於いては「肥料」を「十分」に「与える事」が「可能」な事。

  「種イモ」が「ヤマノイモ・モザイク・ウイルス」に

「感染」(かんせん)していない「ウイルス・フリー」な事。により、

「1年間で」「1m」になる「自然薯」を「育て上げる事」が「可能」です。

 

  私は「コンクリートブロック」を並べて「角度20度」になるよう

「メッシュの鉄筋」(てっきん)を「敷き」ました。

  (「コンパネ」でも「可」ですが「値段が安い」「軽量」「何年も使える」を理由に

  これを選びました。)

  その上に「あぜ波板」(「50cm」を「2枚」つなげて「1m」)を、乗せました。

「あぜ波板」の「溝」に「自然薯」を、這わせます。

 

「あぜ波板」の「本来の使用目的」は「田んぼの畦」(あぜ)から

「水が浸み出す」(しみ出す))のを防ぐ為「あぜの側面」に「設置」する「農具」です。

 

  更に「自然薯」が「あぜ波板」に「張り付いて」「偏平」(へんぺい・平べったい事)に

  ならないよう「クッション」として「梱包資材」(プチプチ)を敷きました。

「あぜ波板」の「溝幅が広い」ので「自然薯」が「くねる・曲がる余地」は

「かなりある」と、思います。

 

「自然薯のツル」は、近くにある「物体」に「絡み付き」(からみつき)

「時計回り」に「巻き付き」「上へ・上へと」「伸びます。

「竹」を使って「ツル」を「山」へ「誘導する事」にしました。

「10m」を超える「竹」も「ペガサス」の「側面」・「後方」の「ドア」を

「解放」すれば「運ぶ事」は「容易」でした。

 

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ここに写真を添付

 

・「メッシュの鉄筋」の「写真」

・「あぜ波板」の「写真」

「竹」を積んだ「ペガサス」の「写真」

・「風景全体」の「写真」

 

 

  私は「今回」「近所の種苗店」から「種イモ」「100本」を「仕入れ」ました。

  (「種苗店の好意」のせいか?「少し多かった」気がします。)

群馬県産」で「1本・740円」「最低購入単位・100本」でした。

 

「3本だけ」「水耕栽培」に「チャレンジ」してみました。

「つるを絡ませるため」「柿の木」の下に「コンクリートブロック」と

「ブルーシート」で「小さな池」を作りました。

 

「池」の上に「コンパネ」を乗せ「コンクリートブロック」で囲み「畑」を作りました。

「コンパネ」に「ドリル」を使い「直径5mm程度」の「穴を開け」ました。

『「種イモ」の「頭の部分」から『「今年生まれ」の「小イモ」』は「真下」に伸びます。

 

「小イモ」が「コンパネの穴」を「通る位置」に「種イモ」を「セット」しました。

「無事に穴を通れ」ば「小イモ」は「池の中」に「到達」します。

「池の中」には「1m」の「あぜ波板」を「斜めに」敷いてあります。

 

「スーパー」で、売っている」「比較的粘りが強く」「密度の濃い」「ヤマトイモ」は

「水に沈み」ます。

「自然薯」が「水に浮く」事は「絶対に無い」と、思っています。

「池の水」が「腐らないよう」「金魚育成時」に使う「エアーポンプ」から

「エアーストーン」を「装着」した「2本のホース」を「池」まで伸ばし

「2カ所」で「池の水」を「攪拌」(かくはん)させました。

「池の水」は「自然に蒸発」するので「足し水」(たしみず」する必要がありそうです。

 

 

 

 

ここに写真を添付

 

・「普通の植え方」(長さのわかる物)の「写真)

・「水耕栽培」の「風景」

 

 

 

  私は「今回」「地上」での「自然薯栽培」に当たり「土」では無く「砂」を使いました。

  もし、「砂の中での栽培」が「可能」であれば「皮が薄く・綺麗な肌」の「自然薯」を

「収穫出来るはず」です。

 

『「1番旨味のある」「皮の部分』を「捨てる必要」は、ありません。

  従って「「歩留まり率」は、ほぼ「100%」と、なります。

「綺麗に洗い」「ヒゲ根」を「ガスコンロ」で「炙り焼き」(あぶりやき)すれば

「皮ごと擦り込めるはず」です。

 

「天然の自然薯」は「固い赤土」の中で「センチュウ」(「体長0;3mm〜1mm)」の

「害虫」に「寄生」(きせい)される為「皮が厚く」ボコボコ」しています。

  従って「調理」するには「皮を厚く剥く(むく)必要」」が、あります。

「丁寧に剥かないと」「土」や「小石」を、取り除ききれません。

「結果として」「食べられる部分」は「3分の2位」に「減って」しまいます。

 

「畑」の中にも「センチュウ」がいます。

「畑の土」で「直接」育てると「自然薯」と同じく「皮を剥く」必要があります。

  そこで「自然薯農家」は「クレパーパイプ」の中に「センチュウ」がいない

「土」(主に赤土)を詰め「その中」で「自然薯」を育てます。

「結果」として「皮」が「薄く・綺麗な」自然薯」が「収穫」出来ます。

 

  私が使った「砂」の中に「センチュウ」が、いない事を「祈り」ます。

 

「今回の栽培方法」は「机上の空論」(きじょうのくうろん)です。

「砂上の楼閣」(さじょうのろうかく)です。

「絵に描いた餅」(えにかいたもち)となる「可能性大」です。

 

『特に「水耕栽培」の「成功確率」は「限りなく」「0%」に「近い」と、思っています。

「万に1つ」「成功」したら「棚から牡丹餅」(たなからぼたもち・たなぼた)です。

「ネット」で「検索」しても「水耕栽培」の「記述など」「全く」ありません。

  既に「誰か」が「試みて、失敗した」ので「論外」なのかも、しれません。

 

  もしも「これらの栽培方法」が「実を結べば」

「空き地」が有り「種イモ」が「手に入れば」

  誰でも「園芸気分」で「自然薯」を「栽培」し「食べる事」が出来ます。

 

「大げさな言い方」になりますが『「小さな1歩」を「踏み出した事」』になります。

「マニュアル」に「追加」されるかもしれません。

 

長くなってしまいました。

 

『「金魚の王様」「らんちゅう」の「飼育」』の話は「次回のブログ」で

紹介させて頂きます。

「予告編」として「キーワード」を、残します。

 

・「4月16日」「去年生き残った金魚」が「産卵」

    「卵の大きさ」は「トビコ」(「トビウオの卵」位で

   「シャケの卵」「イクラ」の「10分の1l」位しかありません。

・「4月18日」「去年生き残った」「別の金魚」が「産卵」

・「4月25日」「孵化」(ふか)(「卵」から「稚魚」に「生まれ変わる」)

・「4月30日」「去年生き残った」「別の金魚」が「産卵」

 

 

「菅原 洋一」(すがわら よういち)は「芽生えてそして」という「歌」を歌いました。

「菅原 洋一」は「1,933年生まれ」です。

国立音楽大学・大学院(くにたちおんがくだいがく・だいがくがくいん)を卒業しました。

「知りたくないの」を歌い「一流歌手」の「仲間入り」をしました。

  しかしながら、、その「容貌 故」(ようぼう  ゆえ)「ハンバーガー」の「あだ名」を

「貰って」(もらって)いました。

 

「美人の女性歌手」と「ヂュエット」した時には「美女と野獣」と

「揶揄」(やゆ・からかう)する「心無い人」が、いました。

 

「知りたくないの」「今日でお別れ」「愛のフィナーレ」等

「タンゴ 系」「カンツオーネ 系」の歌が「多かった」気がします。

  私が思う『「歌の上手な人」の「1人」』です。

  

 

「菅原 洋一」「芽生えてそして」  「作詞 : 永 六輔」「作曲 : 中村 八大」

 

あなたのまつげが  ふるえてとじて

なみだのしずくが  つたって落ちて

私に芽生えた  あなたへの愛

 

「芽生え」てひ弱な  愛の心を

やさしく  やさしく  育てる月日

やがては私を  抱きしめる愛

 

その愛が   私を育てた愛が

今は私を苦しめ  悩ませるの

 

あなたのまつげが  ふるえてとじて

なみだのしずくが  つたって落ちて

それが終わりの  あなたへの愛

 

その愛が  私を育てた愛が

今は私を苦しめ  悩ませるの

 

あなたのまつげが  ふるえてとじて

なみだのしずくが  つたって落ちて

それが終わりの  あなたへの愛

あなたへの愛

 

 

「新芽」(しんめ)を英語で

 

「sprout」

 

「芽生える」を英語で

 

「burgeoning」

 

と言うそうです。