何気なく使っている言葉の意味

「為せば 成る」

 

「為せば 成る」(なせば なる)

「為さねば 成らぬ 何事も」(なさねば ならぬ  なにごとも)

「成らぬは 人の 為さぬなりけり」(ならぬは ひとの なさぬなりけり)  

                                                                     (「上杉 鷹山 」(うえすぎ ようざん)・言)

 

『「ナセル」は「アラブ」の「大統領」』

 

(私達が「小学生」の頃、この言葉を加えて、言っていました

 

「上杉 鷹山」(1,751〜1822)は「江戸時代後期」の「米沢藩主」(現在の山形県)でした。

 

「強い意志」を持って取り組めば「実現できる可能性」がある。

「為す」は「行動する事」を、表しています。

「成る」は「実を結ぶ」・成功する事」を、表しています。

 しかし「行動」を起こさなければ「実を結ぶ」「成功する事」はありません。

「行動する事」の「大事さ」を、教えています。

 

「誰でも夢」を「抱き」(いだき)ますが「夢に向かって」「具体的」に

「行動を起こす人」は、ほんの「一握りの人」だけだそうです。

 「夢」に向かって「具体的」に「行動を起こした人」だけが「夢を実現」出来ます。

「頭の中で考えているだけ」「思っているだけ」では「夢」は「夢のままで」終わります。

「行動を起こす事」の「大切さ」を教えています。

 

この「名言」を「座右の銘」(ざゆうのめい)としている「経営者」は、多いそうです。

座右の銘」とは

・自分の心を「律する」為の「格言」

・日々を「生きていく上」で、自分が「忘れてはならない」と思っていることや

「こうありたい」と感じている「言葉」

・毎日を「揺るがず」「有意義に」過ごすための「指針」

  だそうです。

 

そして「驚いた事」に、「1,961年」「43歳」と「歴代最年少」で

「第35代・米国大統領」に就任した「ジョン・F・ケネディ」元米国大統領も

「この名言」を「座右の銘」としていたそうです。

「大統領就任時」「日本人記者」の「日本人の政治家の中で、1番尊敬する人物は誰か?」の

  質問に対し「ケネディ」は「上杉 鷹山」と「回答」したそうです。

 

ジョン・F・ケネディ」「大統領」は「1,963年・11月22日・12時30分」

テキサス州・ダラス」での「オープンカー」「パレード中」に

「狙撃」(そげき)されました。

「衆人環視」(しゅうじんかんし)の元「暗殺」されました。

 

「当時」  私は「9歳」でしたが「テレビ」の「その瞬間の画像」を「ハッキリ」覚えています。

「当然に」「世界中の話題」になりました。

「事件」から「半世紀」を過ぎた「2,019年」現在でも「真犯人」は不明であり

「暗殺の真相」も「公表」されていません。

 

ケネディ」が「上杉 鷹山」を「尊敬」したのは「下記理由」からだそうです。

 

・「上杉家」は「関ヶ原の合戦」で「「石田 三成」率いる「西軍」に「味方」しました。

・「戦いに勝利」した「東軍」「徳川家康」により「会津120万石」から「米沢30万石」に

   「減封」(げんぽう)されました。

・「3代藩主」が「跡継ぎ」を決める前に「急死」した為、かろうじて「お家断絶」は

   「免れた」ものの、さらに半分の「15万石」に「減封」されました。

     (「ブログ」「どうにかなるさ」で書きましたが

    「当時」は「家督相続」(かとくそうぞく)では無く「跡目相続」(あとめそうぞく)でした)

 

・「収入」は「8分の1」になったにも拘らず「120万石時代」の「格式」を「踏襲」した為

   「藩の財政」は、たちまち「大幅な債務超過」となり「破綻状態」になりました。

・「収入」を増やそうと「重税」を課した為「逃亡する領民」が後を絶たず

   「13万人」→「10万人」と「人口減少」しました。

 

・「上杉 鷹山」は「17歳」で「第9代・米沢藩主」になりました。

・「上杉 鷹山」の「考え方の根本」は

   「父母が子を養う」がごとく「藩政府」が「人民のために尽くすこと」でした。 

 

・「35歳」で「隠居」し「家督」を譲った際「次の藩主」に「3か条」を、贈りました。

1・『「自ら助ける」すなわち「自助」(じじょ)』

2・『「近隣社会」が「互いに助け合う」すなわち「互助」(ごじょ)』

3・『「藩政府」が「人民に手を差し伸べる」すなわち「扶助」(ふじょ)』

 

・「自助」実現のため「上杉 鷹山」は

   「米作以外」の「殖産興業」(しょくさんこうぎょう)を「積極的に」進めました。

  「農民」に対し「寒冷地」に適した「漆」(うるし)「楮」(こうぞ)「桑」(くわ)

  「紅花」(べにばな・山形県県花)等の「栽培」を「推奨」しました。

  「ちなみに」「千葉県の県花」は「菜の花」です。

 

  「漆の実」からは「塗料」をとり「漆器」(しっき)を、作りました。

「楮」からは「紙」を梳きだし(すきだし)ました。

「紅花」の「紅」は「染料」(せんりょう)として「高く売れ」ました。

「桑」で「蚕」(かいこ)を「飼い」(かい)「生糸」(きいと)を「紡いで」(つむいで)

「絹織物」(きぬおりもの)に仕上げました。

 

「貧しい農村」では「働けない老人」は「厄介者」(やっかいもの」として

「肩身の狭い思い」をしていました。

「上杉 鷹山」は「老人達」に「米沢」の「川・池・沼」の多い地形を利用した

「コイの養殖」を勧め(すすめ)ました。

 やがて「美しい錦鯉」(にしきごい)は「江戸」で「飛ぶように売れ始め」ました。

「老人達」は『「自ら」「稼ぎ手」になった事により「生き甲斐」を持つようになりました。

「結果」として『自然に「老人を敬う」気風(きふう)が』が、育っていきました。

 

・「互助」実現のため「上杉 鷹山」は

   「藩士」(はんし)「武士」)にも「自分の家の庭」で「農民と同じもの」を

   「植樹・栽培する事」を、命じました。

   「士農工商」の「身分制度」の中、「武士」は『「百姓」と同じ事をさせるのか』と

  「激しく抵抗」しました。

 

   それに対し「上杉 鷹山」は「自ら率先して」「城中」(じょうちゅう)で

「植樹・栽培」を、行いました。

「武士」も「農民の年貢」に「徒食」(としょく・「働かず遊び暮らす事」)せず

「自助の精神」で「生産に加わるべきだ」と「身をもって」示しました。

 

「結果として」「上杉 鷹山」の「改革」に「共鳴」して「下級武士」の中からは、

「自ら」「荒れ地を開墾」(あれちをかいこん)して「新田開発」(しんでんかいはつ)に

「取り組む人々」が「数多く」現れました。

 

「家臣」(かしん)の「妻子」も「養蚕」(ようさん)や「機織り」(はたおり)に、たずさわり

「働くことの喜び」を、覚えました。

  こうして「武士達」に「自助の精神」が「芽生え」(めばえ)ると共に

『「農民」のために』という「互助の精神」が「普遍化」(ふへんか)しました。

 

・『「扶助」(ふじょ・「力添え」をして助ける事)』実現のため「上杉 鷹山」は

「民」に「手を差し伸べ」ました。

「1,782年〜1,783年」の「2年間に至る、天明の大飢饉」(てんめいのだいききん)では

「長雨」と「冷夏」の為「米作」は「例年の20%程度」に、落ち込みました。

 

「上杉 鷹山」は「陣頭指揮」(じんとうしき)を取り「素早く行動」しました。

   ・『「藩士」「領民」の「区別」無く』「1日あたり」「米」

      「男・3合」「女・2合5勺」(にごうごしゃく・2合半)の「割合で支給」し

      「粥」(かゆ)として食べさせました。

 

  ・「酒・酢・豆腐・菓子」等「穀物」を「原料」とすると品の「製造を禁止」しました。

  ・比較的「被害の少ない」「酒田」「越後」から「米」を「買い付け」しました。

  ・「上杉 鷹山」以下「上杉家」の全員も「同じ食生活」をしました。

  ・それを見習って「富裕な者達」は「貧しい者達」を「競って」助けました。(「互助」)

 

「全国 300藩」の内「領民の救済」を成し得るだけの「備蓄」「財政力」があったのは

「米沢」「水戸」「紀州」「熊本」の「4藩」だけだったそうです。

 

「上杉 鷹山」が「藩主」になった時には「破綻状態」だった「財政」は

『「自助」「互助」の精神による「改革」』で「完全に復活」し

「富裕な 藩」になっていたのでした。

 

「扶助」「互助」の「甲斐」(かい)があり「餓死者」は「1人も出なかった」そうです。

「近隣」の「盛岡 藩」では「人口の20%」の「餓死者・病死者」が出たそうです。

上杉鷹山」の「功績」は「幕府」にも認められ「美政である」として

「3度も表彰」を受けたそうです。

 

ジョン・F・ケネディ」は「大統領就任時」似たような悩みが有った為

「上杉 鷹山」の「格言」を「座右の銘」としたのだと、私は思います。

 

 

「武田 信玄」も、「似た格言」を言ったとされています。

「1,521〜1573」(戦国時代・室町時代の中の、1つの時代)

甲斐国」(かいの くに)の「戦国大名」です。

「上杉 鷹山」の「名言の礎(いしずえ)」となったと言われる「名言」です。

 

「為せば 成る」

「為さねば 成らぬ」

「成る業(わざ)を」

「成らぬと 捨つる(すつる) 人の儚き(はかなき)」

 

「強い意志」を持って取り組めば「実現できる可能性」がある。

  一方、「取り組まなければ」何事も「実現できない」

  又、「努力」すればできることであっても、

「最初から」「無理」だと「諦めてしまう」ところに「人の弱さ」がある。

 

 

こぶしファクトリー」という「クインテット」(女性5人グループ)は

「ナセバナル」という「歌」を「2,018・8・8」に「リリース」しています。

 

「ナセバナル」 「こぶしファクトリー 」 「作詞」:「及川 眠子」「作曲」:「星部 ショウ」

 

私の道に  転がってる石ころ

歩きだすたびに  またつまずいている

イヤになりながら  何かを憎みながら

広すぎる街の空を見上げてる

立ちつくす  でも知ってる

前へと進むほかに方法(みち)はない

 

ナセバナル  為さねば成らぬ

迷いを断ち切るためにこぶしを握り

ナセバナル  そっと微笑む

彼方(かなた)に流れた星に  願いをかけてみる

 

私の敵は  すぐにくじける自分

誰かに守ってもらえると思う癖(くせ)

涙 はじゃまと  強く心  に決めて

甘えを捨て去る一歩(いっぽ)を踏みだす

 

怖くても逃げたくても

私  を救えるのは私  だけ

 

ナセバナル  為さねば成らぬ

自分の力を  いまは信じてみよう

ナセバナル  夢という名の

ひときわ輝 く星を  いつかはつかみたい

 

ナセバナル  為さねば成らぬ

自分の力 を今は信じてみよう

ナセバナル  大きな雲に

隠れて見えないけれど  絶対  そこにある

ナセバナル  夢という名の

ひときわ輝 く星を  いつかはつかみたい

 

 

「自然薯 栽培」(じねんじょ さいばい)

 

私は「子供の頃」父に連れられ「山の中」で「自然薯」を「掘った事」があります。

「道具」は「先端」に「幅10cm・長さ20cm」位の「鉄製のヘラ」が付いただけの

「芋掘り棒」(いもほりぼう)だけでした。

 

「くねりながら下に伸びる」「1m以上」の「自然薯」を

「最後まで掘り切る事」は「子供の私」には「不可能」でした。

「小さな穴」で掘れる人は「名人」と呼ばれていました。

「当然のように」「いつのまにか」「自然薯の収穫」は「父の「専業」になりました。

 

「母」は「自然薯」を「すり鉢・すりこぎ棒」を使って「すり込み」ました。

「自然薯」は「ネバリが強い」ので「すりこぎ棒」を持ち上げると

「すり鉢」も一緒に付いてきます。

 

「麦とろご飯」を作るために「冷ました「味噌汁」の上澄み」を「すり鉢」に入れ

「2倍程度」に伸ばしました。

 それでもまだ「粘り」は「十分に」ありました。

 

「スーパー」で売っている「ヤマイモ」の「比」ではありません。

「自然薯」には「アミラーゼ」という「消化酵素」が含まれている為「何回おかわり」

 しても「大丈夫」でした

 

 私は「自然薯」を「野菜の 王様」だと思っています。

 

私は「去年」あるきっかけにより「自然薯栽培をやってみたい」という「夢」を持ちました。

私は「子供の頃の経験」を思い出し「30歳位」から「25年間位」「天然の自然薯」を

掘ってきました。

「結果」「自然薯の生態」は「良く知っている」つもりです。

 

「自然薯農家」は「畑」で「クレパーパイプ」を「地中」に埋め「栽培」します。

  その為「真っ直ぐな自然薯」で「調理」もしやすいです。

「栽培のノウハウ」に付いて「多くの経験値」を所有しています。

「栽培された自然薯」は「天然自然薯」と比べても「味・粘り・滋養強壮効果」等に於いて

「遜色」ありません。

 

私は「天然自然薯」の様な「くねり・曲がり」のある「自然薯」にこだわりました。

私の「栽培方法」は「プロの目」からは「非常識で・無謀」に見えるはずです。

しかし、私は『「結果」を見る事なく「諦める」』事が、出来ませんでした。

「栽培の過程」で「不都合が生じ」「5回位」「方針転換」しました。

 

私は「3ヶ月間」「やれる事はやり切った」と思います。

『「鬼」が出るか「蛇」が出るか』(おにがでるか じゃがでるか)分かりません。

私に出来る事は、もう「神頼み」しか有りません。

 

「鬼が出るか蛇が出るか」の意味は

『どんな「恐ろしいもの」が「待ち受けて」いるか「見当」もつかない』

『「運命」は「誰にも予測できない」』です。

 私には『「福」が出てくれるのでは?』という

「一縷」(いちる)の「淡い望み」に賭けるしか有りません。

 

「最初の関門」は「種イモ」が「無事に発芽し・ツルが伸びる事」です。

「恐らく」「時期」は『桜の花」が「散り終わる頃」』のはずです。

  もし「クリア」出来たら「次のブログ」で「知人の力」を借りて

「写真を添付」し「投稿」するつもりです。

 

「金魚の 王様」と言われる「らんちゅう飼育」についても

「紹介」させてもらうつもりです。

 

「失敗」する事は「想定内」です。

  「何度でも」「形を変えて」「挑戦」し続けるつもりです。

 

「松山 千春」は「君を忘れない」という「歌」を、歌いました。

松山千春」としては「珍しい」「男目線」の「歌詞」です。

「歌詞」には、私が「言いたい言葉」が「散りばめられて」います。

  「何時も」「ペガサス」の中で歌いながら「勇気をもらい」「励まされて」います。

 

 

松山千春」   「君を忘れない」    「作詞 : 作曲」   「松山千春

 

君は砕け散った(くだけちった)  夢のかけら  ひとつひとつ

小さな  その手で集め

いいさ  やり直すと  笑っていた君の頬に(ほほに)

こぼれる涙を見たよ

「どうして生きているの?」 君は僕に尋ねた(たずねた)けど

答えを急ぐことはない  やがてわかるから

 

僕もあきらめない  何度だって立ち上がろう

恐れるものなどないさ

君を忘れないよ  互いの道歩こうとも

どこかで逢えるといいね

 

君から教えられた  自分自身  愛するように

生きたい  人を愛したい  生命(いのち)ある限り

 

君から教えられた  自分自身  愛するように

生きたい  人を愛したい  生命ある限り

 

 

「為せば成る」

を、英語で言うと、

 

「Where there is a will, there is a way」

 

(意志あるところに道は開ける)と言うそうです。