何気なく使っている言葉の意味

「悪戯心」

 

皆さんは「悪戯心」(いたずらごころ)という言葉を、使った事が有りませんか?。

 

いたずらごころ」とは、

 

「悪戯」(いたずら)は「軽い悪事」を行う事を意味します。

「悪事」(あくじ)は「悪い行い」の事で「よくない事」を意味します。

 

いたずらごころ」は「軽い悪事」を「働こうとする気持ち」のことを言います。

 

『「ふざけ半分」で悪いことをすること』

『軽く「ちょっかい」を出すこと』等は、

 「いたずらごころ」によるものだそうです。

 

いたずらごころ」の「同類語としては、

 

「遊び心」

 

・何に対しても「真剣」に「真面目」に向き合ってしまう人にとっては「魅惑的」で

  「憧れの心の持ちよう」だそうです。

・仕事をしている時に「真面目すぎて」「雰囲気が悪くなった」職場を見て、

  「遊び心」を発揮する人がいるそうです。

・「真っ白」になるまで「仕事に夢中」になったり、逆に「モチベーション」無く、

   「ダラダラ」と仕事をしない「バランス」の良い人の「心持ち」だそうです。

 

「茶目っ気」(おちゃめ)

 

・「無邪気ないたずら」をして、相手を「笑わそう」とする心持ち。

・「楽しい雰囲気」にしようとする心持ち。

・「目的」が「相手を笑わそう」としたり「楽しい気持ち」にさせようとする心持ち。

・「茶目っ気」がある人がいた方が「職場の人間関係」が良くなる傾向があるそうです。

 

「茶目っ気」のある人は「好かれる」そうですが

「その理由は」下記の為だそうです。

 

・「茶目っ気」がある人と一緒にいることで「楽しく」「明るい」気持ちになれる。

・「茶目っ気」のある人は「自慢話」や「見栄を張る」事をせず、

   「相手」を「一緒にいて楽しい」気持ちにさせる。

・「茶目っ気」のある人は、基本的に『いつも「笑顔」』である傾向にあり、

   「相手」の気持を「楽しく」和ませる。

     (「役者」が「演じる役」によって「印象が異なる」のは『「笑顔」の有り無し」』が、

   「1番の要因」だと、私は思っています)

・「茶目っ気」がある人は「コミュニケーション」能力に「長けて」(たけて)おり、

   「ムードメーカー」になれる。

・「茶目っ気」のある人は「何とかなるさ」という「ポジティブ」な気持ちが強く、

   「相手」を「明るい気持」「前向きな気持」にさせる事ができる。

・「茶目っ気」のある人は「無防備」で「自分の弱点」をさらけ出せる為、

   「相手」に「警戒心」を持たせない。

・「茶目っ気」のある人は「失敗」を恐れない「勇気」を持っている為、

    「相手」に『「畏敬の念」(いけいのねん)を抱かす』事も「まれ」にある。

・「茶目っ気」のある人は「外見上」に於いて「完璧」で無く、どこか

     「不完全」で可愛く「相手」に「親しみやすさ」を与える。

 

※「画竜点睛を欠く」(がりょうてんせいをかく)    『「晴」は「瞳」(ひとみ)のこと』

   「私なりの解釈」

     (実際の意味は「良くないこと」の「たとえ」として使われています)

 

    昔「中国」の「絵の名人」が「寺の壁」に「竜の絵」を描きました。

  「竜の絵」の出来栄えは素晴らしかったが「何か物足りない」と言われました。

    (「竜の目」が「真っ白」)でした。

   そこで「竜の目」に「瞳」を描き入れると「竜」は「岩壁」から飛び出し、

   たちまち、天に昇ってしまいました。(昇天・しょうてん)

   竜は二度と、帰って来ませんでした。

 

   ※『「相手」が「完璧」過ぎると「全てを失う」』

     『「完璧」を「求める」べきではない』

 

「茶目っ気」の「対義語」としては 、

 

・「ユーモアが無い」

・「型苦しい」(かたくるしい)

 

辺りが、相当するそうです。

 

 

他にも「いたずらごころ」の「類似語」としては、下記が相応するそうです

 

「肩の力を抜いた」「精神の余裕」「ウイット」「上品なシャレ」「トゲのない軽口」

 

「肩ひじ張らない」「機知にあふれる」「屈託がない」「冗談好きな」「子供のような」

 

「あせりがない」「ゆとり」「自在な発想」「高等戦術」「時間に追われない」

 

「包容力」「おおらかさ」「のんびり」「とぼけた」「おかしみ」「少年の円熟味」

 

 

『「運命」のいたずら』という「ことわざ」があります。意味は、

 

『「人知」(じんち)の及ばないものに「もてあそばれ」ているかのような、

「奇妙な巡り合わせ」』です。

 

「結び会えた」人達に「使う言葉」です。

 

 

『「テレビ局」の「いたずら」』の様に「年末・年始番組」で「同じ時間帯」に

私の好きな「番組」が「何回」も、重なってしまいました。

私の「テレビ」は「パソコン」と一体になっています。

「10年」くらい前に「長男が作ってくれた」もので「ビデオ」を取ることが出来ません。

 

たとえ「取れた」としても、私は「機械に弱い」ので、出来たか自信がありません。

私は「チャンネル」操作を駆使して「複数の番組」を見る事はしません。

一度決めた「番組」は「コマーシャル」を含め、最後まで見届けます。

何れかの番組を「犠牲」にする「苦渋の選択」をしなければ、なりませんでした。

 

「H 31・1・2」(水)

 

「17:55〜21:00」「テレビ東京

「緊急SOS!池の水ぜんぶ抜く大作戦〜お宝出た!抜きましておめでとう」

「3時間スペシャル」

 

「19:00〜22:00」「千葉テレビ

「年末年始韓国ドラマ」

冬のソナタ」(第16話・17話・18話」)  (全26話)

 

「21:00〜23:15」「下町ロケット」「TBSテレビ」

「新春ドラマ特別編」「下町ロケット」「お正月も大逆転!」

「トラクター戦争の結末は」

 

私は「優先順位」を付け、結局、

「17:55〜19:00」まで「かいぼり」

「19:00〜21:00」まで「冬のソナタ

「21:00〜23:15」まで「下町ロケット

  を見ました。 

 

「犠牲」になったのは

「かいぼり」「19:00〜21:00」

冬のソナタ」「21:00〜22:00」(第18話)

  でした。 

 

『「二兎」を追う者は「一兎」をも得ず」(にとをおうものはいっとをもえず)という、

「西洋のことわざ」』があります。意味は、 

 

「「二羽の兎」(にわのうさぎ)を「同時」に捕まえようとする者は、

  結局は「一羽」(いちわ)も捕まえられない」

『「二つのこと」を「欲張る」と、どちらも「失敗」したり、

「中途半端」に終わってしまう」

 という 事です。

 

「ウサギ」の数え方は「1匹」「2匹」では無く「1羽」(いちわ)「2羽」(にわ)と、

「鳥」と同じ「数え方」をします。

「諸説」ありますが「子供の夢」を壊さない方の「説」を採用します。

 

「ウサギ」は「四つ足」でいわゆる「獣」(けもの)です。

今でも「野ウサギ」は「食用」の対象です。

しかし「ペット」として可愛がられる「ウサギ」が「獣」だと知ったら、

子供は「飼育するのを止めて」しまうかも知れません。

 

そこで「苦肉の策」として、

「ウサギ」には「翼は無い」ものの「ピョン・ピョン」と、

「空高く?跳ねる」ことより、

「鳥類」のように「1羽」「2羽」と、数えるようになったそうです。

 

私も「支店の人」に『私の体の中には、

「獣の血」(けもののち)が流れている」と言ったことがありました。

私の母は、私を産んですぐに『「盲腸」(「急性虫垂炎」)で「1週間入院」したそうです』

その間、私は「山羊(やぎ)の乳」で育てられたそうです。

もちろん「覚えて」いません。

ある程度の「年頃」になった時に、聞かされた話です。

 

ある時、私が「事務処理」を「間違えた」時「human  error」

(ヒューマン エラー・人為的ミス)だと言われました。

私は、すかさず『私は「ヒューマン」(人間)では無い。

「野」に放たれた『「1匹」野良猫」(のらねこ)だ』と言い返しました。

 

それ以来、私に対して「聞き慣れない・難しい言葉」を言ってくる事は、無くなりました。

『「1匹」野良猫』とは『「群」(むれ)に属さないで生きている「野良猫」の事です。

普通は「1匹狼」(おおかみ)という使い方をします。

 

 

本来であれば「「下町ロケット・ヤタガラス」は「30・12・30」(日)で、完結予定でした。

私も、それに間に合うよう「徹夜状態」で急いで「はてなブログ

「天空海闊」(てんくうかいかつ)に「最終回の予想」を書き「投稿」しました。

 

しかし「テレビ局」は「散散と」「最終回」と宣伝しておきながら、

「新春ドラマ特別編」に持ち越しにしてました。

私は「嘘を見抜く」のは得意ですが「テレビ局」が

「堂々と嘘をつく」とは「予想だに」していませんでした。

見事に「してやられ」ました。

自分が「嘘をつかない決意」でいるだけに、余計に「ショック」でした。

 

私の「ブログ」への「アクセス数」も、お陰様で「かなりの数」になっています。

私の「予想が外れて」しまったら『「松山 千春」の歌の「動画」が消えた』時のように、

「お詫び」するつもりだったので「結末」を見ないわけには、いきませんでした。

結果は「当たらずとも遠からず」だったので「ホット」しています。

 

私が見たかったのは「冬のソナタ」でした。

私が「冬のソナタ」を放映しているのに気付いたのは「ブログの投稿」が終わった、

「12月29日」で「全26話」中の「8話」目からでした。

 

「韓国」は「世界3聖人」の1人「孔子」が「始祖」となった「儒教の国」です。

年功序列社会」で「親孝行が絶対」「友達との絆を大切」にする国です。

その中で「偶然の出会い」と「偶然のすれ違い」を繰り返し、

「運命にもて遊ばれる2人」を応援するのが、私の楽しみでした。

 

「ブログ」「彗星のごとく現れる」で「冬のソナタ」に対する、

  私の「記憶」を書きました。

「役者名」「登場人物名」は合っていましたが「ストーリー」の、

「最後」の部分が違っていました。

「チュンサン」と「ユジン」を「異母姉弟」で結婚できないと、私は書きました。

「ドラマ」では「チュンサン」と「恋敵」「サンヒョク」が「異母兄弟」でした。

 

「チュンサン」は「アメリカ」に「逃避」しました。

「ユジン」と「血縁」が無く「結婚できる」事を知った上での行動でした。

「失明」或いは「死ぬ」事により「ユジン」に「負担を掛けたく」なかったからでした。

「ユジン」の「幸せ」を願い「いさぎよく身を引き」ました。

   私の考える「愛の世界」でした。

 

一方「サンヒョク」は「ユジン」に、

「振り向いて欲しい」「結婚して欲しい」と「自分の身勝手」を押し付けました。

「未練」「嫉妬」『「諦め」を知らない「執着心」』

『「自分さえ良ければ」という「エゴ」』『「罪」の意識を感じながらの「嘘」』と

「見苦しい姿」でした。

  私の考える「恋の世界」でした。

 

私が「ブログ」に書いた「ストーリー」は、少し違ってしまいました。

「18年前」の事を、私は「忘却」してしまったのでした。

 

「忘却とは忘れ去ることなり」

「忘れえずして忘却を誓う心の悲しさよ」と言ったのは、

「菊田  一夫」原作「君の名は」の「ナレーション」で流れた「名セリフ」です。

「君の名は」の主人公は「後宮 春樹」(あとみや はるき)と

「氏家 真知子」(うじいえ まちこ)でした。

 

東京大空襲」の中「戦火」を免れ「偶然のいたずら」で「数寄屋橋」で知り合います。

「2人」は「互いの名」も告げず「再会」を「約束」して別れます。

 しかし「神様のいたずら」「すれ違いのいたずら」により、

「結ばれる」事は、有りませんでした。

 

「私の記憶」も「歳とともに」失われていくのかも知れません。

 「ラブストーリー」「冬のソナタ」は「全て」に於いて、私の「お気に入り」でした。

ペ・ヨンジュン」と「チェ・ジュウ」の着ている「服の色」「マフラーの色」と、

「色の組み合わせ」が最高でした。

 

「色の三原色」(「赤」「青」「黄」混ぜると「黒」)と、

「光の三原色」(「赤」「青」「緑」混ぜると「白」)を

「ふんだん」に使っていました。

  (1番多かった色は「雪」のイメージ?「白」でした)

 

「3人家族」「2人の世界」の「栗原小巻」「竹脇無我」も同じくらい「良い色」を

   着ています。

   私は「何度か」「見ず知らずの人」に「オシャレですね」と

「声を掛けて」しまった事がありました。

  しかし「1度」も「引っ叩かれた」事は有りませんでした。

「両番組共」に「冬のソナタ」同様「挿入歌」が、番組を引き立てています。

 

私は今「パソコン」で「栗原小巻、二人の世界」で検索した「二人の世界」(第1回)の

You Tube」の「動画」を見ながら「iPad」を打っています。

(何故か「パソコン」と「ケータイ」で、出てくる「動画」が違います)

これを見ていると「勇気」が湧いてきます。

 

「あおい 輝彦」  「二人の世界」  作詞  : 「山田 太一」 作曲作曲  : 「木下 忠司」

 

つめたい 風の街で

ぼくは君と 会った

生きてることを  空の広さを

ぼくは君と 共に知った

二人の世界が あるから

だから明日に かけるんだ

二人の世界が あるから

だから明日に かけるんだ

 

夜の闇の 中でも

ぼくは君が 見える

声をかき消す  風の中でも

ぼくは君の 声を聞く

 

二人の世界が あるから

だから強く 生きるんだ

二人の世界が あるから

だから強く生きるんだ

 

二人の世界が あるから

だから強く 生きるんだ

二人の世界が あるから

だから強く 生きるんだ

 

 

冬のソナタ」で「ユジン」は「墓参り」し「チュンサン」と結ばれるよう、

「死んだ父親」に願い事をしました。

  私も「墓参り」の都度「先祖」に「自分の成功」を願ってしまいます。

 

「墓参り」の意味は、(仏教の場合)

 

・「墓参り」で「願い事」をするのは「間違い」です。

・「墓参り」の意味は「先祖の供養」が目的です。

・「墓参り」は「先祖」の「供養」をする事で

    「それ以上でも」「それ以下」でもありません。

・『「自分が今ある」事に対して「感謝」を伝える」』

    『「近況」を伝える』事です。

 

・「願い事」をする場合は「神社参り」の方が妥当と思います。

・「その場合」でも「他力本願」は「ダメ」だそうです。

・「自分はやるだけやった」ので「運を下さい」程度の「願い」が妥当だそうです。

・もっとも「日本人の多く」は「神仏習合」(しんぶつしゅうごう)なので、

  「仏壇の前」(「神棚」「仏壇」両方ある場合)で「願い事」をする事も、

  「あながち間違いでは無い」のかも知れません。

 

皆さんは『「脳のシワ」が多い程「頭が良い」・「記憶力が良い」』と、

聞いた事がありませんか。

・結論から言うと「ウソ」だそうです。

・「イルカ」の「脳のシワ」は「人間」より多いそうです。

・「イルカのショー」を見ると「イルカ」は『頭が良い、

   「ほ乳類」である事を、誰もが認めざるを得ません。 

     しかし、「人類」より「頭が良い」とは思えません。

 

それでは、「脳の大きさ・重さ」で「頭の良し悪し」が決まると思うかも知れません。

・しかし「初恋」などで知られる「ロシアの作家」

  「ツルゲーネフ」の脳が「2,012g」も有ったのに対し、

  「アインシュタイン」の「脳の重さ」は「1,230g」しか無かったそうです。

 

・「夏目漱石」の「脳の重さ」は「1,425g」だそうです。

     (一般成人の『「脳の重さ」は「1,200g〜1,600g」ぐらいだそうです)

    「男性」で「1,350g〜1,500g」

    「女性」で「1,200g〜1,250g」と「若干」

    「男性」の方が重い傾向があるそうです。

 

 

「忘れ去られる事は寂しい」と、私は思っています。

  だから私は「忘れないように努力」しています。

 

私と兄は「3年くらい前」までは、殆ど会話がありませんでした。

兄は、私の事を「用な事も言わない」と「責めた」事が何度かありました。

 

「2年前」に死んだ母親は「私が若い頃」何度も、

「私が女だったらよかった」と言っていました。

  (女性の方が「おしゃべり」というのは「社会通念」のようです)

 

しかし今は、私が「喋る」様になったので、兄との「会話」が弾みます。

「私達の話」を、少し離れた場所で聞いている「義理のおねえさん」も、

時々、  話に参加します。

 

「母」は「92歳」で死にました。

私が「喋る」様になった時には、母は「痴呆症」になっていました。

私が、母が入所していた「特別養護老人ホーム」を訪れると、

私の顔を見て「兄の名前」を言ったこともありました。

 

私には、母に「話す事が出来る話題」は、豊富に有りました。

母は、父が生きているうちには、何時も喧嘩していました。

父が死んでからは「悪口」は言わず、むしろ「逆」でした。

 

「72歳で死んだ父親」は、私が卒業した高校(「旧制中学」)を卒業して直ぐに、

「17歳」で「志願兵」として「陸軍士官学校」に入学した事。

 

後に「満州」に赴任し「第二次世界大戦」を戦った事。

終戦を迎えても「ソ連軍」が「ポツダム宣言」を無視して侵攻して来、

父親達を「捕虜」にし「シベリア」で「強制労働」をさせた事。

 

「極寒」の中、同僚達が「過労と飢え」で、次々と死んでいった事。

「飢えをしのぐ」為に「蛇や雑草」を食べ、生き抜いた事。

  ようやく日本に帰った時は「33歳」になっていた事。

終戦時の階級」が「准尉」(じゅんい)で「終戦」により「1階級特進」し、

少尉」になった事。

 

持ち帰った「軍刀」は重く「刃」を畳に突き立てるだけで「ブスッ」と刺さった事。

今でも、私が住んでいた「古い家の何処か」に、有るかも知れません。

 

「7歳年下の母」とは「娶せ」(めあわせ)で結婚した事。

「16年間」の戦争生活で得た物が「感謝状」と「金杯」と、僅かな「軍人恩給」

  だけだった事。

 

「英語」が得意で「学校の教師」を目指していた事。

  私が「中学生時代」に父は、私に教えるだけの「英語力」を持っていた事。

「酒が好き」で「部落の寄り合い」が有ると、腰が立たなくなるまで、飲んでいた事。

そのお陰で、私が「陸上部」を、辞めざるを得なかっ事。

 

等々話してあげれば「母が喜ぶ話題」は「いくらでも」ありました。

「後悔先に立たず」です。

 

私は「盆・彼岸」等に「墓参り」した時に、自分の為した「不徳」を詫びています。

しかし、未だ「許し」を貰っていない気がします。

 

 

この「暮れ・正月」のうちに私に「酒を飲む習慣」が「復活」してしまいました。

「安いワイン」を飲んでいます。

「昔と違い」いつでも止める事は「可能」だと、思っています。

 

いくら飲んでも「記憶をなくす」事は、私にはありません。

むしろ、酔うほどに「頭が冴え」「しらふ」の時には出来なかった、

「思い出せなかった記憶」を呼び戻したり「考えも及ばなかった発想」を

思いついた事が、度々有りました。

現に「シラフ」時の私の頭は「キレ」も無ければ「コク」も有りません。

 

今回は「かいぼり」について書くつもりでしたがいつのまにか、

「話が外れて」(それて)しまいました。

「子供時代」に「かいぼり」に似「た体験」を何度もしました。

何時もそうです。

書いているうちに、違う話になってしまいます。

 

「家の役に立つ事は何もせず」『「1円の収入」にもならない」のに、

「お金」を使って「ブログ」を「書いているいる私」に対して、

「何のために生きているの?」と妻は、問いました。

『「私が「尊敬」している、元「会社の先輩」』にも「年賀状」で、

「働いて下さい」と「アドバイス」されました。

「何の仕事で働け」とは、書いてありません。

 

私の「働く道」は「今さら」変える事は出来ません。

「お金の問題」では、有りません。

これまで「言ってきた事」が「嘘」でない事を「証明」して、

「自分の名誉」を守る事しか頭に有りません。

 

そろそろ「やるべき時」がやって来たと、思います。

「機は熟した」気がします。

これから「体力」「度胸」の世界に「旅立ち」しようと思います。

 

イソップ寓話」『「アリ」と「キリギリス」』の「アリ」のように、

「深慮遠謀」(しんりょえんぼう)に、私は「計画」を立てて来ました。

「深慮遠謀」の意味は

「深く考えをめぐらせて、遠い未来の事を見通し、手抜かりのない計画を立てること」

  です。

 

「深慮遠謀」の「謀」(はかりごと)は、

「陰謀」(いんぼう・「密かに企む悪事」)

「謀略」(ぼうりゃく・「人を欺くような策」)

「謀殺」(ぼうさつ・「計画して人を殺す」)等より、

「悪い意味」を表す「漢字」と、私は解釈していました。

 しかし「深慮遠謀」の「謀」は「良い意味で」で使われています。

 この様な「漢字」は「少ない」と思います。

 

「本日(31・1・9(水)」

 

「正月気分」も抜け、私は「4月」に向け、動き始めました。

「想定通り」身体には「かなり」キツイ作業でした。

「歳のせい」「普段の怠惰な生活のせい」なので、やむを得ません。

「人の2〜3倍」「作業時間」が、かかっていると思います。

 

「童話」『「ウサギ」と「カメ」』の「カメ」のように、

「愚直」(ぐちょく)に継続すれば、必ず「時間に間に合う」と思っています。

  また「徐々に体力が復活」してくれるという「淡い期待」もあります。

 

「愚」(おろか)が付く「褒め言葉」は、おそらく「愚直」しかありません。

「童話」「ウサギとカメ」には「続き」があるのを知っていますか?。

「道徳的な解釈」も有ります。

「ウサギとカメ」で「ネット検索」すると出てきます。

 

松山千春」は「時のいたずら」という「歌」を歌いました。

「中学校の同窓会」で、私は「この歌」を歌って「失敗」しました。

『「時」の「いたずら」』=『「すれ違い」の「いたずら」』=『「偶然」の「いたずら」』

  =『「神」の「いたずら」』だと、私は考えています。

 

『「運命」の「いたずら」』にあった人達は「結ばれ」ます。

『「時」の「いたずら」』にあった人達は「別れ」しか有りません。

 

「松山 千春」「時のいたずら」   作詞  :  作曲  「松山 千春」

 

時の「いたずら」だね  苦笑いだね

冷たい風が今  吹き抜けるだけ

 

木枯らしにふるえてる  君の細い肩

思いきり抱きしめて  みたいけれど

今日はやけに君が君が  大人に見えるよ

ぼくの知らないままに  君は急に

 

時の「いたずら」だね  苦笑いだね

冷たい風が今  吹き抜けるだけ

 

かわす言葉もなくて  「すれちがう心」

一人歩きだした  君を見つめて

昔愛した人を  思い出しただけさ

今さら言えないよ  それは君だと

 

時の「いたずら」だね  苦笑いだね

冷たい風が今  吹き抜けるだけ

時のいたずらだね  苦笑いだね

冷たい風が今  吹き抜けるだけ

 

いたずらごころ」を英語で、

 

「Prankster」

 

(いたずら者・ふざけ者)

 

と、言うそうです。