何気なく使っている言葉の意味

「怪我の功名」

 

みなさんは、「怪我の功名」(けがのこうみょう)と言う「ことわざ」を、

何気なく使った事が、ありませんか?。

「怪我の功名」の「怪我」とは、ぶつけたり、切ったりしてできる

「ケガ」とは、違います。

「怪我の功名」の意味は、「失敗や過失、あるいは、

何気なくしたことなどが、思いがけず、

  良い結果を、もたらすことのたとえ」だそうです。

「功名」を、「手柄」と、読み換えても、良い気がします。

誰しも、好き好んで「失敗・過失」を、犯そうとはしないので、

良い結果となるのであれば、

「意図しない成功の為に、なした、必要な失敗であった」と、

ポジティブに捉えても、おかしくないと、思います。

私は、、敢えて難しい言葉を使わずとも「結果オーライ」で、

十分に意味は通じると、思っています。

 

「不幸中の幸い」と言う「ことわざ」は、

「怪我の功名」と、何となく似たイメージに、

聞こえますが、「不幸中の幸い」の意味は、

「不幸な出来事が、起こってしまったが、その中で、

まだ救いとなる部分がある」との意味で、

若干、ニュアンスが、異なります。

 

2,017年 3月 8日(水)、

私は、不節制(酒、タバコ、睡眠不足、ストレス等)を

慢性化させた結果?「生活習慣病」に、陥り

脳梗塞」を「発症」しました。

その日も、いつものように、17 : 00 頃、

支店での最後の仕事を終え、

帰り支度をする為に、2階にある会議室に戻ろうと、

階段を上っていた時でした。

左脚が上がらず、階段に、うつ伏せに、

転んでしまいました。

それを見ていた支店の新入女子社員が、

急いで駆けつけてくれ、助け起こしてくれました。

私は、単に、ウッカリつまずいたものと判断して、

彼女の、それ以上の、親切な申し出を、断わりました。

左脚に違和感を感じつつも、何とか、支店を後にしました。

 

偶然にも、その日は、母体会社内で、同じ高校を卒業した

人達が集う、同窓会の、開催日でした。

私は、55歳の時、何とか33年間、勤め上げた、母体会社を、

役職定年となり、関連会社に、転籍しました。

関連会社に於いても、60歳を以って、1年契約の、

嘱託社員の身分と、なりました。

本来であれば、私は、同窓会に出席する立場では無いと、

思いましたが、幹事さんが、せっかく、声をかけてくれ、

私も、3か月毎に回る、支店の人達に会える、楽しみもあり、

出席の返事を、してありました。

 

支店の最寄り駅から、会が催される、会場のある駅までは、

僅か、5駅の為、会の開催予定時間より、かなり早く、

着いてしまいました。

会場に近いコンビニで、タバコを吸いながら、

時間調整を、していました。

すると、事前準備の為か、同窓会の会長(支店の、支店長)と、

幹事さん(本店の、役職者)の二人が、開催予定時間より、

だいぶ早く、駅の方から歩いて来ました。

お互いに、挨拶の言葉を交わした後、

私が、脚の具合を説明すると、二人は、私の喋り方が

普段と違い、ロレツが回っていないと、指摘してくれました。

そして、すぐにも、家に帰るよう、アドバイスしてくれました。

普段の私だったら、予約人数に入っていることもあり、

体調のことなど気にせず、アドバイスを無視し、

間違いなく会に出席し、酒を飲み、タバコを吸いながら、

皆と、面白可笑しく、喋っていたはずです。

しかし、あの時私は、口では表せない、

予感めいたものを、感じたのかも、知れません。

二人のアドバイスを受け、素直に、脚を引きずりながら、

駅に向かいました。

そして、更に偶然が重なり、1時間に1本しかない電車が、

私を、待っていたかのように、

私が乗ってすぐに、発車したのです。

 

電車の中で、吊り革に掴まっていると、

案の定、左手の感覚が、おかしくなって来ました。

私が乗った駅から、降りる駅までは、単線で、

反対方面から来る電車との、待ち合わせが多く、

乗る電車によって、所要時間が、異なります。

私が乗った電車は、1時間15分位は、かかったと思います。

 

私は、ケータイで、恐る恐る、わが家の、

怖い「尊い人」(たっといひと)に、

ロレツが回らない口で、現状を説明し、

念の為、降車駅に、救急車を待たせる手はずを、

整える様、懇願しました。

 

その数ヶ月前にも、支店からの帰りに、

電車の中で、大量の吐血をし、電車の床と、

トイレを、血染めにしたことが、ありました。

 

私は、支店を回っていた時は、

関連会社から、本体会社へ、逆出向していました。

従って、私の上司は、本体会社のライン長でした。

この時には、ラインこそ違へ、同じ部で、

別のライン長の肩書を持ち、部長代理を任され、

私の家の近所に住む、「佐藤さん」が、

正に偶然に、私の隣に座っていました。

私の吐血に驚きつつも、車掌への連絡、

汚れた床・トイレの掃除、降車駅での救急車の手配、

わが家の「尊い人」への連絡等を、してくれました。

私は、その時、テッキリ、「肺ガン」の為、

吐血しと勘違いして、死を覚悟しました。

しかし、地元では、一番大きな総合病院に、

駅で待機していた、救急車で、

救急病棟に運ばれ、精密検査した結果は、単なる、

胃潰瘍」(いかいよう)との、診断でした。

 

担当医の先生は、生津(なまつ)と、名乗りました。

名札も見ていなかった私には「ナマズ」に、聞こえました。

胃潰瘍」は、ストレスが強く掛かる仕事をしている人が、

よく罹患する病気で、胃に穴があき、吐血するのは、

特段、珍しくありません。

ただ、私の場合、電車の中だったので、

騒ぎが、大きくなってしまいました。

まさか、たかが、「胃潰瘍」で、あんなに大量の、

鮮やかな「鮮血」を、嘔吐するとは、

夢にも思わず、想像だに、しませんでした。

 

「佐藤さん」は、私に比べ、遥かに高い職位でしたが、

私は、敬称をせず、昔と同じく、

「佐藤さん」と、呼んでいました。

私が、支店長代理だった、31年前、

「佐藤さん」は、新入生として、入社して来ました。

二人共転勤した後、別の支店でも、一緒に仕事をしました。

本社を含め、3回、一緒に仕事をした事になります。

 

脳梗塞」を「発症した時」も、車中が混んでいた時には、

気付きませんでしたが、偶然に、「佐藤さん」も、

同じ電車の、同じ車両に、乗っていました。

そもそも、私は、毎日違う支店に行く為、

乗る電車の路線が違い、乗る時間も、マチマチです。

(最後は、「佐藤さん」と、同じ路線に、乗ります)

よりによって、救急車で、病院に運ばれた2回の日に限って、

同じ電車の、同じ車両に乗り合わせ、2回とも、

一緒に、救急車に乗り、病院にまで、

付き添ってくれたことは、単なる偶然では、

片づけられない、気がします。

 

救急車で、病院の救急病棟に、運ばれました。

色々、検査しましたが、私が、自力で、

電車で帰ってきたと言うと、病院の先生達は

私の症状を安易に、判断したようで、

笑い声も、聞こえました。

尊い人」も、同じ様に考えていたそうです。

「佐藤さん」も、恐らくそう考えていたと、思います。

ところが、「CT検査」の結果が出て、

一人の先生が「脳梗塞」だと、大きな声を張り上げた途端、

その場の雰囲気が、一変しました。

夜間の、救急病棟の当番医は、研修医を中心に、

若手の先生ばかりで、看護師さんを含め、20人程度いましたが、

ほぼ、全員が私の周りに、集まってしまいました。

教授と名乗る、如何にも偉そうな先生も、

呼び出されたらしく、顔を出しました。

尊い人」と、「佐藤さん」の顔付きも、一変しました。

検査し直す、若手医師の顔付きも真剣に、なりました。

もう、23 : 00を、過ぎていました。

 

夜間の、救急病棟に、救急車で運び込まれる人で、

重篤な症状の人は、意外に少ないのかも、知れません。

他の患者さんは、放りっぱなしにされていました。

結局、私は、即、入院となりました。

「佐藤さん」は、ケータイで、「部長?」に、

私の診断結果を、報告し、数カ月間は、

仕事に復帰できない旨を、報告してくれた様でした。

尊い人」も、急いで入院用具を取りに帰り、

家族に、私の病名を報告し、近い親戚にも、電話し、

「蜂の巣をつついたよう」な、状態になった様でした。

 

一番冷静だったのは、多分、私だったと、思います。

先生達に、冗談を言っていました。

何しろ、意識はハッキリしているし、

重篤な症状の自覚も、有りませんでした。

担当医数人の内、主「担当医」は、教授がなり、

「主治医」は、最初に診察してくれた、

「田中 美帆」と言う名の、若くて、美人の先生が、

なってくれました。

(こういう言い方をすると、セクハラと、

 言われかねないこは、十分に、認識しています)

 

田中美帆」先生とは、スピード・スケートで、有名な

「髙木美帆」と、名前が一緒という話題から、

親しくなりました。

その頃は、姉の、「高木菜那」より、有名だった、気がします。

先生は、私が、罹患した病は「脳梗塞」の中でも一番軽い

ラクナ梗塞」(細い血管が詰まる)だったと、

教えてくれました。

数時間(場合によっては、数十分)病院に来るのが遅れていたら、

少なくても、重い後遺症が残る可能性が、高かった、と

教えてくれました。

そして、発症から、病院に来るまでの経緯を、教えると、

先生は、私を「運のいい男」で、

奇跡的だったと、言いました。

 

ヒデとロザンナ」(「出門英」は、若くして、故人)は、

「愛の奇跡」という歌を、歌いました。

 

地方独立行政法人」の総合病院は、

個人病院と違って、長くは入院させてもらえません。

生命保険の入院免責期間の、1週間が過ぎ、

10日目には、退院させられました。

退院の日は、休日でした。

尊い人」が、迎えに来ました。

帰り道で、質素な手土産を買い、

「佐藤さん」の家に行き、お礼の挨拶をしてきました。

意外に元気な姿の私を見て、ビックリしていたのを、

覚えています。

 

入院中の「リハビリ」、退院後の「リハビリ」により、

殆ど、私の体は、元の身体に戻りつつ、ありました。

家の近くにある支店にも、散歩の途中に、

寄った事が、ありました。

皆、思っていたより、元気な私の姿を見て、

ビックリしていた様な、気がします。

「悪事千里を走る」が如く、私が「脳梗塞」に罹患した噂は、

関連会社を含め、 あっという間に、

皆に、知れ渡ってしまったようです。

 

「退院後、しばらくして、私の体に、異変が起きて来ました。

脳梗塞」に罹患する前には、別の病気の薬との、

相性が悪かったせいか、

血圧が、楽に 200 オーバーすることが、

チョクチョク有りました。

そんな時は、頭がボーとなって、真っ直ぐ歩くことも、

ままならず、支店の、1階と2階を、行き来するのに、

手すりにつかまって、片脚づつ、ユックリと、

上り下りする姿を、多くの人に、見られてしまいました。

支店の、休憩室で寝ていると、冷たいお茶を、

差し入れしてくれた人も、いました。

しかし、「脳梗塞」発症後、少ししてから、

少しづつ、血圧が下がりはじめ、3ヶ月もすると、

薬を飲まなくても、血圧が、正常値になってしまったのです。

リハビリの為に、散歩したこと、別の病気の薬を減らした事も、

影響したのかも、知れません。

 

後遺症としては、

・「たまに、ヨダレが垂れること」

    (「田中美帆」先生が、気持ち良く、

    「診断書」を、書いてくれた為、生命保険金が、

       少しだけですが、下りました)

・「記憶を、少し失ったこと」

・「性格が少し、変わってしまったこと」と

      症状は、軽微でした。

 

退職した今の私は、体力の衰えは、止む無しと思うも、

気力は、むしろ、向上していると、感じています。

 

こういう事を、「怪我の功名」と言うのかも、知れません。

 

これを書いていて、改めて、都合のいい話だと、思いますが、

絶対に、本当の話です、

私は、絶対に、嘘はつかないし、

すぐバレる様な、言い訳も、しません。

「運転免許証」の更新時にも、「脳梗塞 治癒」との、

   診断書を、添付しました。

 

「怪我の功名」を、英語でいうと、

「come out sumelling like a rose」と

(「不運や、悪行などから)

    バラの様な香りをさせながら、抜けてきた」)

言うそうです。